大八車
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近世
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江戸では天正年間の頃から車長持を用意して非常時の運搬具とした[3]。ところが、明暦3年(1657年)に発生した明暦の大火の発生後、重い荷物を積んだ小型の車長持で身動きが取れなくなり路上で類焼する例が多く、幕府は天和3年(1683年)にその使用を禁じた[3]。
そこで、これに代わって江戸で利用されるようになったのが大八車であるが[3]、その起源については諸説ある[4]。
ただ、大八車の使用は幕府により制限され、江戸、尾張(名古屋)、駿府(静岡)に限られていた[5]。また、上方には大八車より小さな「べか車」があったが、大坂と京都のみに限られていた[5]。東海道で大八車などの通行が認可されたのは明治時代になってからのことである[6](後述)。
元禄16年に町奉行の行った調査では、江戸では1273台の大八車が使われていた[7]。
先述のように大八車の使用は江戸や尾張などに制限されていた[5]。旧広島藩士の小鷹狩元凱は著書『広島雑多集』で長州征伐の際に徳川慶勝の軍が広島に入った際、大八車を引いていたことから広島藩の役人が尋問したが、尾張藩の大八車は許可を受けているとして黙認されたまま明治維新に至ったと述べている[5]。
近現代
幕府による大八車などの荷車の禁制が正式に解かれたのは明治時代のことである[5]。東海道では1872年(明治5年)の宿駅制度の廃止後、大八車、人力車、馬車などの通行が認可された[6]。明治時代になると大八車の通行できる道路の整備が進んだ[8]。
関東大震災では、大量の家財道具を積んだ大八車などが避難路を塞ぎ、本来は防火帯となるはずの大通りを越えて火災が拡大した[9]。両国橋も大渋滞となり、避難民は本所の陸軍被服廠跡地(現在の横網町公園)に誘導されたが、火災旋風が発生して約38,000人が亡くなった[9]。
第2次大戦後、一部の地域では木製の車輪に替えてゴムタイヤが使用されていた[10]。
大八車が使用されたのは昭和時代中期にかけてである[9]。リヤカーの登場により、その地位を奪われるかたちで大八車は衰退に向かった。さらに自動車の台頭もあって、実用に供される個体はなくなりつつある[11]。
なお、明治時代以降には、二輪の大八車の前部に旋回可能な前車を取り付けて四輪とした構造の荷馬車が製作されるようになり、自動車が普及するようになるまで日本各地で使用された[注 1][注 2]。
現代では道路標識において「自転車以外の軽車両通行止め」を表す図案として、大八車の姿を見ることができる[9]。道路交通法上は軽車両に分類されている。


