浅井了意
From Wikipedia, the free encyclopedia
慶長の頃、摂州三嶋江(高槻市)の本照寺(現碧流寺)の住職をしていた西川氏の家に生まれる[5]。了意の父は真宗大谷派の僧侶だったが、弟の西川宗治の東本願寺出奔事件に連座したため、真宗から追放されて還俗した[2]。このため、了意は流浪の日々を送ったと推測されるものの、その前半生の詳細は不明である[2]。壮年期は大坂に住み、寛永末年には京都に移住した[2]。『江戸名所記』『東海道名所記』『むさしあぶみ』などの作品があることから、江戸にも往来ないし一時居住したことがあったと考えられている。[要出典]
容膝に師事して儒学・仏道・神道の三教に通じた[2]。当時から博覧強記ぶりは有名で、『鸚鵡籠中日記』にも「彼博識の了意」と記述がある[3]。後に出家して大谷派に戻り、京都の菊本町の正願寺の二世住職となり、1675年(延宝3年)4月11日に本性寺の設立を許された[2][5]。晩年は本性寺昭儀坊了意と名乗った[2][6]。
元禄5年(1692年)に刊行された『狗張子』によれば、元禄4年元旦(1691年1月29日)に昭儀坊で亡くなったという。享年は80歳程度と推定されている[2][3]。
1973年、大谷派は学匠として了意を顕彰し、学階嗣講を追贈した[2]。
著書
校訂本
- 2007年8月より『浅井了意全集』(岩田書院、全19巻:予定)の刊行が開始されている。