大和の清九郎

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因光寺の銅像
因光寺の銅像

大和の清九郎(やまとのせいくろう)は、江戸時代の大和の農民。その言行から浄土真宗においての信者の手本となる妙好人とされ、ラジオや映画などの題材となった。地元では銅像が建てられ法要が営まれるなど尊敬の対象となっている。

延宝6年(1678年)、高市郡谷田村の貧しい家庭に生まれる。幼少期に母の故郷である丹生谷へ移ったが、まもなく父を亡くした。やがて清九郎は下市に丁稚奉公に出たものの、読み書きや計算ができなかったために奉公を辞め、荒れた生活を送るようになった。母は何とか立ち直らせようと清九郎の結婚を取り持ったが、その生活は容易に改まらなかった。このころ、一家は鉾立村(現・大淀町)に移住している。妻との間には「こまん」という娘が生まれたが、出産直後に妻は病没した。この妻の死をきっかけに、清九郎は熱心な信仰を示すようになったとされる[1]

こまんが成長すると、清九郎は無頼者と評判の久六という男との縁談を進めた。ある日、久六は清九郎が日々読んでいた御文を囲炉裏に投げ入れてしまったが、清九郎はそれを拾い上げ、読む苦労を如来が衆生を救おうとする苦労に重ね合わせて感謝した。この姿に久六も心を打たれ、以後は言動を改めたという。この時の御文が光蓮寺に残されている。1750年に清九郎は死去した[1]

妙好人・清九郎としての広まり

在俗の篤信者を妙好人伝として最初にまとめたのは伊賀上野明覚寺の住職仰誓である。仰誓は1721年に京都の西洞院に生まれ、1729年に京都の本願寺派明覚寺に入り、1743年に伊賀上野の明覚寺の住職に就任した人物である[2]。寛延二年(1749年)、清九郎の噂を耳にした仰誓は、彼を二度訪問、厳しい境遇にありながら仏を信じる清九郎の言動に心を動かされた。後に仰誓は、自著で清九郎に出会ったことで自らの浅さを自覚したと述べている[3]

直林不退は、仰誓が「妙好人伝」を著した背景には、この清九郎との出会いがあったからだと分析している。一方、龍口明生は、執筆の発端は1747年の僧樸法語にあるとしている[4]

仰誓は1753年に清九郎伝を中心とした10人の伝をまとめた『新聞妙好人伝』を執筆した。つづいて1764年、石見国の木浄泉寺の住職となった仰誓は26名の伝を記した『妙好人伝』を書き上げている。これらの書物は出版されることはなく、一部の門人たちの間でひそかに流布していった[5]

1842年、美濃の専精寺の僧純が妙好人伝を再編して刊行、以後1858年までに第五編まで妙好人伝を発刊していった。また、1851年には蝦夷の像王が続妙好人伝を出版している。これら6編は1955年に永田文昌堂によって妙好人伝として出版され多くの人が容易に入手、閲覧できるようになった[6][7]

僧純の再編の際、清九郎の物語は改変されており、仰誓のものにはないエピソードが追加されている[8]

丹生谷の喜多村得身は一生を通じて清九郎に関する研究を行い、1925年の「清九郎さんのことについて」や1937年の「清九郎の旧跡」などを発表した[9][10]

戦前には本願寺によって無声映画『大和の清九郎』が製作された[10]。その後、近隣の大淀町浄迎寺の住職花岡大学が1966年に著した『妙好人清九郎』や、菩提寺の光蓮寺住職の遠藤撮雄が1987年に著した『妙好人清九郎物語』などの著作によって清九郎は広く知られるようになっていった[11]

史跡

脚注

参考文献

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