河辺 (京丹後市)
京都府京丹後市の地名
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地理
歴史
中世
平安時代中期に編纂された『和名類聚抄』(和名抄)には周枳郷が掲載されており、河辺、周枳、長岡、善王寺が周枳郷の範囲だったと推定されている[3]。『和名類聚抄』では丹後国丹波郡七郷に神戸郷(かんべごう)があるが、比定地は不詳とされている[4]。
中世には三宅美作守が河辺城を居城としていたが、天正7年(1579年)に細川藤孝率いる軍勢が一色義道率いる軍勢を攻撃した際、河辺城は細川軍によって落城した[5]。
近世
江戸時代初期の河部村(河辺村)は宮津藩領だったが、元和8年(1622年)には峰山藩領となった[2]。慶長年間(1596年-1615年)に編纂された「慶長郷村帳」による村高は1509石余だった[2]。
延享3年(1746年)の「峯山明細記」による戸数は212戸、人口は777人だった[2]。天保年間(1831年-1845年)に編纂された「天保郷帳」では1511石余り、明治時代初期に編纂された「旧高旧領」では1162石余[2]。
近代
1871年(明治4年)には峰山県の所属となり、その後豊岡県の所属となったが、1876年(明治9年)に京都府の所属で落ち着いた[2]。1873年(明治6年)10月14日には、河辺村と新町村の合同で河辺校(後の大宮町立河辺小学校)が開校した[6]。1889年(明治22年)4月1日の町村制施行によって、近世以来の河辺村が単独で中郡河辺村を形成した[2]。
太平洋戦争中の1944年(昭和19年)3月15日には峯山海軍航空隊が発足し、河辺飛行場が航空隊の練習所となった[7]。航空隊の士官や下士官は河辺、周枳、口大野などの民家に下宿した[7]。河辺村の民家や河辺国民学校が米軍機によるロケット弾を受けたことがあった[8]。
現代

1950年(昭和25年)の戸数は295戸、人口は1442人[2]。同年には鉱物学者の田久保實太郎などによって、日本産新鉱物として河辺石が発表された[9]。1951年(昭和26年)4月1日、河辺村、周枳村、口大野村、奥大野村、三重村、常吉村が新設合併して大宮町が発足し、大宮町の大字として河辺が設置された。
1972年(昭和47年)3月には河辺小学校が閉校となり、4月1日には学校統合によって大宮町立大宮第一小学校が開校した[6]。新校舎の完成までは河辺小学校の校舎が河辺校舎として用いられた[6]。1982年(昭和57年)の世帯数は405世帯、人口は1561人[1]。
2004年(平成16年)4月1日、大宮町など6町が合併して京丹後市が発足し、京丹後市の大字として大宮町河辺が設置された。
施設
名所・旧跡


- 小中田遺跡
- 古墳時代後期から奈良時代前期の遺跡[1]。
- 松田墳墓群 - 古墳時代前期から弥生時代後期の墳墓群。
- 松田城跡
- 北谷城跡
- 黌野城跡
- 皇大神社
- 社格は旧村社[12]。祭神は天照大日霊女命、大宮比売命[12]。延徳年間(1489年-1491年)、白葛山の山頂に小祠が祀られ、その後白石山に移された[12]。天保元年(1830年)には小字千丈敷に移された[12]。明治維新後には皇大神社と称するようになり、1873年(明治6年)には村社に列せられた[12]。1927年(昭和2年)秋、河辺村にあるすべての神社が小字船山に合祀されて皇大神社となったが、すぐに元の小字千丈敷に戻された[12]。1939年(昭和14年)には社域が海軍に接収されて河辺飛行場の用地となったため、同年には小字本城の現在地に仮遷宮し、1944年(昭和19年)10月には社殿が落成した[12]。
- 萬休院(万休院)
- 妙徳寺
- 正覚寺
- 妙泰寺
- 日蓮正宗の寺院。山号は真徳山。
- 河辺飛行場跡
- 河辺飛行場第4格納庫の遺構
