峰山藩
日本の江戸時代~明治時代初期に、丹後国に所在した藩
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峰山藩(みねやまはん)[注釈 1]は、丹後国に1622年(元和8年)から1871年(明治4年)まで存在した藩。宮津藩主・京極高知の婿養子京極高通を藩祖とし、以降も峰山京極家が代々藩主を務めた。藩庁は峰山陣屋(現在の京丹後市峰山町)に置いた。幕末の石高は11100石余である。
峰山藩の歴史は、丹後国主であった京極高知の死後、その養子であった京極高通に峰山1万石が分知されたことに始まる。立藩時には1万3000石であった峰山藩領は、新藩主相続時の分知が続き、1万1100石に落ち着いた。外様大名ではあったが、譜代大名並の待遇を受けており、歴代藩主のなかには大坂加番や若年寄などの幕府職をつとめるものもいた。藩内では丹後ちりめんの制作が奨励され、目立った百姓一揆が起こらず[6]、藩政時代を通じて比較的安定していた。廃藩置県によって峰山藩は廃藩となり、藩領の大半は峰山県、ついで豊岡県、京都府に統合された。
藩史
成立と藩領固定まで
京極高次の弟である京極高知は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに東軍として参戦し、翌6年(1601年)3月に丹後一国を授けられ、宮津藩12万3千石が成立した[7]。京極高知の長子が死んだ後、跡継ぎが不在であったため、朽木宣綱と高知の妹の間の子である京極高通が婿養子となっていた[8]。高通は元和2年(1616年)に、独自で武蔵国・下総国・近江国内3000石を与えられている[9]。
元和8年(1622年)に高知が病没すると、遺言により、実子の京極高三(側室の子)に田辺藩3万5千石、京極高広(正室の子)に宮津藩7万8千2百石、高通に峰山藩1万石が与えられた[8][10]。これによって、元々拝領していた3000石と合わせて1万3000石の大名となり、峰山藩が立藩した[10]。高通の峰山入封に先立ち、家老らが入国し、峰山城下町の整備が始まった[11]。藩主高通が峰山に入国を果たしたのは、元和10年(1624年)のことであった[11]。
寛永14年(1637年)より、峰山陣屋の普請が始まり、寛永16年(1639年)に完成した[12]。
寛文5年(1665年)に高通は水口城の城番を任されるも、同年に同地にて死去した[13]。高通の死後、父の病を聞き水口へ赴いていた嫡子の京極高供が、水口城の城番を引き継いだ[10]。翌6年(1666年)になり家督を京極高供が引き継いだが、遺領のうち1000石を弟京極高昌に、500石を弟京極高成に与えたため、1万1600石となった[10][14]。同年に本藩にあたる宮津藩は、藩主京極高国の親不孝のために改易となった[15]。
延宝2年(1674年)に高供が死去し、嫡子である京極高明が藩主となった[10]。高明は元禄12年(1699年)に隠居し、嫡子の京極高之が峰山藩主を継ぎ、遺領のうち500石を弟京極高重に与えたため、1万1100石となった[10][16]。
中間期
元禄16年(1703年)、峰山藩領下総国猿島郡3村が常陸国真壁郡3村に置き換えられた(実質140石程度の加増)[17][16]。
享保5年(1720年)、絹屋佐平治が京都の西陣より帰国し、「ちりめん織」の技術をもたらしたという[18]。西陣のちりめんを参考にして、峰山独自の「丹後ちりめん」が作り出された[19]。
享保8年(1723年)、京極高之が死去し、婿養子の京極高長が藩主となった[17]。
明和2年(1765年)、京極高長が隠居し、婿養子の京極高久が藩主となった[17]。高久は、天明7年(1787年)に大番頭、天明8年(1788年)以降は若年寄を務めるなど、幕府の要職に就いた[17][20]。
天明年間は凶作が続き、米価が暴騰した[20]。文化5年(1808年)、京極高久が死去し、嫡子の京極高備が藩主となった[17]。高備は、文化6年(1809年)に大番頭を務め、文化9年(1812年)から文政11年(1828年)まで若年寄を務めるなど、幕府の要職に就いた[21]。
天保3年(1832年)に京極高備が死去し、その子・京極高倍が藩主となった[21]。しかし、京極高倍は翌4年(1833年)に死去し、弟の京極高鎮が藩主となった[21]。京極高鎮もまた、天保5年(1834年)に死去し、松平忠馮の子である京極高景が藩主となった[21]。
嘉永2年(1849年)、京極高景が隠居し、養子の京極高富が藩主となった[22]。慶応2年(1866年)より、京極高富は若年寄に任命された[23]。
明治維新と廃藩
鳥羽伏見の戦い後、藩主の高富は新政府よりたびたび上洛の要請を受けていたが、病気を理由に家臣の派遣にとどめていた[23]。慶応4年(1868年)1月、西園寺公望率いる山陰道鎮撫使が来訪すると、先に到来していた宮津藩同様に、峰山城下町でも謹慎体制がとられた[23]。翌2月に高富は若年寄を辞し、養子の京極高陳を上洛させて、勤皇の意を伝えたが効果はなかった[24]。ついに高富は上洛することとしたが、京都につくや謹慎処分が申し付けられた[24]。同年には赦免と謹慎解除がなされるも、高富は病気を理由に隠居し、高陳が藩主を継いだ[24]。
明治2年(1869年)には、版籍奉還を願い出て、6月23日に藩知事に任命された[22]。明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県により、峰山藩は廃止され、峰山県が設置された[22][25]。峰山県は、同年には豊岡県に編入された[25]。
歴代藩主
京極家
外様大名、石高:1万3000石 → 1万16000石 → 1万1100石

| 代 | 氏名 | 肖像 | 受領名[26][27] | 在職期間[27] | 出自[27] |
|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 京極高通 きょうごく たかみち |
主膳正 | 元和8年8月12日 - 寛文5年12月24日 (1622年8月12日 - 1666年12月24日) |
宮津藩主・京極高知の婿養子 朽木宣綱の次男 | |
| 2 | 京極高供 きょうごく たかとも |
主膳正 | 寛文6年6月14日 - 延宝2年2月28日 (1667年6月14日 - 1674年2月28日) |
先代の子 | |
| 3 | 京極高明 きょうごく たかあき |
備後守・主膳正 | 延宝2年4月29日 - 元禄12年4月29日 (1674年4月29日 - 1700年4月29日) |
先代の子 | |
| 4 | 京極高之 きょうごく たかゆき |
主膳正 | 元禄12年4月29日 - 享保8年2月2日 (1700年6月15日 - 1723年3月8日) |
先代の子 | |
| 5 | 京極高長 きょうごく たかなが |
備後守・主膳正 | 享保8年4月2日 - 明和2年8月8日 (1723年5月6日 - 1765年9月23日) |
先代の婿養子 村上藩主・内藤弌信の子 | |
| 6 | 京極高久 きょうごく たかひさ |
備前守・備後守 | 明和2年8月8日 - 文化5年4月20日 (1765年9月23日 - 1808年5月15日) |
先代の婿養子 旗本・京極高庭の子 | |
| 7 | 京極高備 きょうごく たかまさ |
周防守・上総介 | 文化5年6月14日 - 天保3年11月20日 (1808年7月7日 - 1832年12月11日) |
先代の子 | |
| 8 | 京極高倍 きょうごく たかます |
備前守 | 天保3年11月20日 - 天保4年12月5日 (1832年12月11日 - 1834年1月14日) |
先代の子 | |
| 9 | 京極高鎮 きょうごく たかつね |
天保5年1月 - 6月23日 (1834年2月 - 1834年7月27日) |
先代の弟 | ||
| 10 | 京極高景 きょうごく たかかげ |
右近将監 | 天保5年8月16日[注釈 2] - 嘉永2年3月7日 (1834年9月17日 - 1849年3月30日) |
島原藩主・松平忠馮の子 | |
| 11 | 京極高富 きょうごく たかとみ |
備中守・周防守・主膳正 | 嘉永2年3月7日 - 慶応4年5月28日 (1849年3月30日 - 1868年7月17日) |
先代の子 | |
| 12 | 京極高陳 きょうごく たかのぶ |
備中守 | 慶応4年5月28日 - 明治4年7月14日 (1868年7月17日 - 1871年8月29日) |
旗本・京極高紀の子 |
所領
石高と領地
峰山藩の石高変遷は以下の通り。
- 元和2年(1616年)、京極高通が3000石を賜る[1]。
- 元和8年(1622年)、京極高知の遺領のうち1万石を相続し、1万3000石で立藩[1]。
- 寛文6年(1666年)、京極高通の死後、遺領のうち1000石を弟京極高昌に、500石を弟京極高成に与え、1万1600石に[1]。
- 元禄12年(1699年)、京極高明の死後、遺領のうち500石を弟京極高重に与え、1万1100石に[1]。
旧高旧領取調帳をもとにした旧高旧領取調帳データベースによれば、幕末京極家時代の所領は以下のとおりである[28]。
明治維新後、真壁郡1村(旧旗本領)が加わったほか、同郡1村(旗本領との相給)の全域を本藩領とした。明治初年の表高は1万1144石、実高は1万1540石であった[5]。
陣屋
戦国時代、当時丹後守護であった一色氏による奥丹後三郡の支配拠点となった吉原山城は後に入国した細川氏に受け継がれ、 峰山藩主京極氏は吉原山城のあった権現山の麓に陣屋を築き支配の拠点とした[29]。 本丸、二の丸が並ぶ山頂付近は360度の展望ができ、中郡の平野から竹野郡の海岸線までを見渡すことができる[30]。 峰山藩は明治初年の廃藩置県まで京極氏が藩主であったため引き続き明治初期まで城下町として存続した[29]。
城下町
宝暦3年(1753年)には、不断町、横町、上町、中町、下町、藪町、出町、田町、鉄砲町、寺坂町、古殿町の11町があり、陣屋周辺から上町まで武家屋敷が並ぶ[31][29]。桜尾公園の山の麓に陣屋防御のため、鉤型に道を曲げるなどの工夫が見られる[32]。
江戸藩邸

江戸藩邸は年代によって多少の変遷がある。安政2年(1855年)の記録によれば、中屋敷が西久保土取場、下屋敷が本所横川に位置していた[33]。また上屋敷は、現在の永田町、内閣総理大臣官邸敷地内北部に相当した[33]。この敷地は明治維新後、一橋徳川家、清の公使館、佐賀の旧鍋島侯爵家の所有を経ている[34]。