大崎彦助

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大崎 彦助(おおさき げんすけ、天保7年〈1836〉5月27日 - 明治28年〈1895〉11月23日[1])は、旧長岡藩家老・河井継之助の従者。長岡藩領来伝村の割元(大庄屋)。大崎家十三代当主。幕末に河井継之助に取り立てられ、以後、継之助が没するまで公私共に深く関わった。名の読み方として「ひこすけ」と読み仮名を振っている文献もある。[2]実名は邦敬である。

大崎彦助は、天保7年5月27日に長岡藩領来伝村(現、新潟県長岡市来伝)に、割元大庄屋)であった大崎家12代目当主・大崎津右衛門邦常の長男として生まれた。彦助の号は通休(つうきゅう)と称した。[3]父・大崎津右衛門邦常は、学問の重要さを知り、子供の彦助を長岡藩の佐野家(河井継之助の姉の縁家)に、11歳から13歳まで寄宿して句読を学ばせ、その後、彦助を江戸の古賀塾で学ばせた。

大崎彦助邦敬(1837-95)

大崎家の由緒

斯波大崎氏の子孫

大崎氏の家紋(丸に二つ引)

彦助は来伝村の出身者であるが、当村における村役人家は「大崎様」と呼ばれる彼の生家であった。大崎家は世襲庄屋として江戸初期から幕末に至るまで、庄屋の地位を泰然と保ち続けた。

大崎家は、南北朝時代奥州管領として奥州に下向した斯波家兼を始祖とする足利氏の流れをくむ斯波氏の一族である。「来伝」という村名は一説には、村の草分け家である上来伝の大崎家の遠祖である上杉景勝(1556-1623、上杉謙信の養子)の家臣、大崎義清が慶長6年(1601年)の景勝の会津から米沢への転封に際して六十里越経由で当地に来住し、大崎氏を伝えたのを由来とし「来伝」の地名が付けられたといわれている。

大崎家の由緒について、口伝や当家の過去帳などにより、次のようなことが知られる。室町幕府奥州探題であった大崎氏十三代当主の大崎義興(1600年没)は、天正18年(1590年)の豊臣秀吉(1537-98)の小田原征伐に際し、参着が遅かったことを理由としてその所領を取り上げられた。当時16歳であった義興は、秀吉の命によって蒲生氏郷(1556-95)に付せられ、やがて上杉景勝に属した。天正18年(1590年)から翌19年(1591年)にかけて、国元では名門再興を願う大崎氏遺臣による葛西大崎一揆が起こっており、家名再興は遂に果たされることなく大崎氏は没落したが、その子孫は越後に落ち延びた。

慶長5年(1600年)の上杉遺民一揆に際して当時26歳の大崎義興は、上杉軍に属して六十里越えをして会津から越後に侵入した。越後での新たな領地の獲得を目指した義興は懸命に戦い、同年8月3日には浦瀬、加津保方面から軍を進め、転じて栃尾城を攻撃したが、その際に受けた傷がもとで同年末に会津で命を落とした。義興の死後、残された長子、大崎義清は、慶長6年(1601年)の景勝の米沢への移封に際しては上杉氏にとっては縁故が浅く、いわば新参の家臣として未だ幼い少年であったゆえか、米沢への行を共にすることができずに会津に取り残されたという。そこで義清は、上杉遺民一揆以来、道を知られた六十里越え経由で事情のわかる越後に入り、この地に来住した。義清は延宝2年(1674年)に死去しているが、その戒名は「月秋清明居士」で、義清の「清」の字が使われており、年代的にも前述のような来歴を考えるのに不自然さはない。義清の妻は元禄三年(1690年)に死去している。

来伝村・大崎家宗家

大崎義清の長子は大崎与五右衛門で、天和3年(1683年)から元禄3年(1690年)まで割元をと勤め、元禄5年(1692年)に死去している。戒名は「鉄漢意鎚居士」である。大崎家では、その後代々、「津右衛門」と「与五右衛門」を交互に名乗り、村役人家としてその家格を誇り、連綿として現在に続いている[4]。また、来伝村に隣接する吹谷村や松尾村などでも大崎姓の家が散見されるが、来伝の大崎家宗家から分かれた家であろう。

来伝村は大集落であったにも関わらず、江戸時代には一揆打ちこわしなどは一件も史料には見られない。特に幕末の栃尾郷では多くの庄屋家が一揆や打ちこわしなどの対象とされ、村方騒動による攻撃の目標とされたが、戊辰戦争に際し、長岡藩軍事総督、河井継之助の身辺に常に侍し、側近の三羽烏の筆頭といわれた大崎彦助が当主であった大崎家は西軍にも焼かれず、何の災禍も受けていない。赤谷では昔から「来伝の山は買うな」と言われていたという。このことは、来伝村では他の地積が伸長しているだけ山の地積が減少していることが理由であり、このような現象は、庄屋の力が大きい集落ほどそのような傾向が強く見られたと言われる。つまり、来伝ではそのように大崎家の庄屋としての力が偉大であったことを示すということである[5]

大崎氏の始祖・斯波家兼(1303-56)から数えて、彦助は27代目にあたる。大崎彦助の父・津右衛門は、 夏冬一枚の着物で通したほど質素な生活をしていたが、悠久山にある河合総督建碑の発案者であり、碑の裏に20両の寄付をしていることも記されており、戊辰戦争後の牧野家の窮状を見て、寄付金を募って贈り、牧野家から感謝状ももらっている。

大崎氏初代・直持から彦助まで

家兼(初代)⇒直持(ニ代)⇒詮持(三代)⇒満詮(四代)⇒満持(五代)⇒持詮(六代)⇒教兼(七代)⇒政兼(八代)⇒義兼(九代)⇒高兼(十代)⇒義直(十一代)⇒義宜(十二代)⇒義隆(十三代)⇒義清(十四代)⇒与五右衛門(十五代)⇒中略⇒津右衛門邦治(二十三代)⇒与五右衛門邦由(二十四代)⇒津右衛門義常(二十五代)⇒津右衛門邦常(二十六代)⇒彦助邦敬(二十七代)

河井継之助の従者として

長岡藩の家老・河井継之助の民政を支えた一人に、大崎彦助なる者がいた。彼は古志郡第伝村の庄屋の倅で、11歳の時に佐野与惣左衛門(号は冬山、長岡藩士)の家に寄宿して、句読を授かった。与惣左衛門の妻は、継之助の姉であったので、しばしば河井家へ使いに出された間に、継之助にも認識されるようになった。[6]

長岡藩家老・河井継之助(1827-68)
外山修造(1842-1916)

戊辰戦争で名を馳せた河井継之助には三羽烏とうたわれた気骨のある三人の若者が仕えていた。来伝の大崎彦助、一之貝の諏佐泰助、小貫の外山寅太(後の修造)がそれで、いずれも栃尾の庄屋の息子たちであった。[7]また、大崎、外山の二人に鈴木訥叟を加えて割元三秀才と称されることもあった。[8]彼らは継之助の最期まで手足となり、兵農各方面にわたり大功を挙げたのである。継之助は藩の人材を見ており、身分にはこだわらなかった。見どころがあれば、武士であろうとなかろうと構わなかった。「人間、目を見ればわかる」というのが彼の口癖だった。領内の割元(大庄屋)、里正の子弟などで素質がある者がいれば、彼は呼び寄せたり、自ら出向いたりして会った。[9]

慶応元年(1865年)10月、継之助は郡奉公になり以後は町奉公を兼務、そして家老になりながら強引な藩政改革を次々と実行に移していた。庄屋と農民の紛争地に出向いて裁断を下す。贅沢を摘発し、博打を禁止する。彦助は、その帰途で継之助の家に泊まった際に与えられた揮毫がある。「義之所存冒孤危、必吐心之所宜、経百折而不回」(義の存する所、孤危を冒すも、必ず心の宜しき所を吐き、百折を経て回らず)これが継之助の政治をとるに当たっての牢固たる信条であったことは、その後の軌跡に徹しても明らかである。[10][11]

河井継之助が大崎彦助に与えた揮毫

戊辰戦争の前年、慶応3年(1867年)12月には、遊郭も廃止した。継之助自身がかなりの遊び人だったため、庶民の反発は大きかった。改革を進めていく継之助は、長岡ではを着ていねばならなかった。時に彼は窮屈な長岡を離れて一夜の清遊に三条へ遠出することもあった。こういうお忍びの時のお供は、武士でないほうが気楽である。慶応元年11月14日、刈羽山中村(現、新潟県柏崎市高柳)の紛争(山中騒動)の裁きに行ったときでも、不穏な現地にはわざと大崎彦助一人を連れて乗り込んだ。この時、彦助は事件を手際よく解決し、庄屋からも村民からも感謝された。その後、庄屋は彦助にあやかって、自分の子に「彦助」と名付けたという。[12]

「おみしゃんたちは、今日は黙ってついてきやい。いいとこへ行くがだでや」と含み笑いをする継之助に、秘書格の外山と大崎は従ったのだった。船の中の継之助は、若い者と話すのがいかにも愉快らしく、天下の情勢、藩政の問題点、処世訓など、くだけた調子でしゃべった。舟が三条の五ノ町に着くと、三人は夏の大通りを、華やかな本寺小路の灯の方へ、そぞろ歩きして行った。当時ここには、茶屋、貸座敷が立ち並び、芸者、踊り子、舞子、遊女などがさんざめく街だったようだ。[13]

彦助は継之助とその父・河井代右衛門の間が、うまくいっていない時にも仲介に入るほど公私ともに深く関わっていた。彦助は、継之助に私淑した、いわば門弟のような存在だが、それだけに、激しい気性の継之助にも、ある程度直言することができたのであろう。「先生が、無役の時代ならいざ知らず、藩の要職につかれた現在、その人が父子の間について、とやかく噂されることは、まことに遺憾でございます。ここは一つ、よくよくお考えいただきたいと思います」継之助は苦い顔で聞いていた。「その噂はな、俺も聞かんではねえ。だが、俺にゃ俺の考えがある。おみしゃんの諫言をそのまんま受け入れる気はねえが、まあ、俺も反省はしてみよう。それが折角、いい難いことをいうてくりゃった、おみしゃんにこたえる道だ。そう思うすけの」継之助の胸の内はわからないが、この剛毅な男の心の奥に、どろどろと溜まっている悲しみの一端に触れたようで、彦助は目頭が熱くなるのだった。[14]

戊辰戦争の勃発

長岡城の攻防戦では新政府軍に囚われるが、長岡城の奪回で救い出される。その後、負傷した継之助に付き添い八十里越を只見に向かう。継之助は藩主の若君鋭橘公のフランス亡命を計画しており、大崎、外山など同行5人の選考を終わっていたが、これは実現しなかった。継之助は慶応4年(1868年)8月16日夜8時ごろ、膿毒(ピエミー)で息を引き取ったが、彼が八十里越から会津へ入ったのちも、大崎や彦助は、ずっと彼についていた。[15]継之助の臨終に立ち会ったのは、栃尾組の庄屋の若者たち、大崎彦助、外山寅太(脩造)、諏佐泰助らであった。[16]

彦助は慶応3年(1867)から翌年まで当村の割元庄屋を勤めた。[17]しかし、継之助の死後、遺骨を持ち会津、米沢、仙台を逃避行することになる。すでに身柄は新政府軍に手配されており、彦助がこの後いっさいの役職に付かないことを条件に、来伝村に戻ることが許された。

彦助は、明治28年(1895)11月23日、一生を終える。行年60歳。戒名は「逍遙院梅翁自休居士」である。[18]

家族・親族

脚注

参考文献

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