大庭御厨
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成立
官省符荘への昇格
大庭御厨は国司免判によって成立した国免荘だったため、常に収公・停廃の危険性があった。実際に国司による特権の取り消しは再三行われ、寄進した翌年の元永元年(1118年)、大治6年(1131年)、天承2年(1132年)に特権を再付与(奉免立券)されている。またこの他にも国司の交替の毎に、周囲の開発領主と思われる国衙の在庁官人によって濫妨(らんぼう)されたと伊勢神宮側は訴えている。伊勢神宮はその不安定な状態を打開するため、国司の承認による「国免荘」ではなく、より確実な朝廷の承認による荘園とすべく運動を始め、永治元年(1141年)に官省符荘に昇格させる[2]。
この間、景正の後裔である御厨の下司にも動きがあった。長承4年(1134年)当時の大庭御厨の下司は景正の子の景継であった。しかし10年後の天養元年(1144年)の下司は、景正の直系でなく庶流の大庭景宗だった。大庭景宗は景正の甥の子とも、従兄弟の孫とも言われている(系図参照)。大庭城を築城した。この間の事情は明らかではない。
源義朝の大庭御厨濫行
天養元年(1144年)9月、源義朝の大庭御厨濫行事件が起きる[3]。源義朝は相模国衙の田所目代(税務の代官)源頼清と組んで、「大庭御厨内の鵠沼(くげぬま)郷は鎌倉郡に属する公領である」と主張し、在庁官人とともに御厨に侵攻して濫妨(暴行・略奪)を行い、神人に重傷を負わせた。伊勢神宮は直ちに政府に提訴する。しかし、その最中に源義朝は、源頼清や在庁官人の三浦義継・中村宗平など「千余騎」によって大庭御厨に再侵攻し、御厨の停廃を宣言して大規模な収奪を行った。
下司である大庭景宗は伊勢神宮を通じ太政官に訴え、伊勢神宮は、まず義朝の処罰を相模国司に要求するが、国司は「義朝濫行のことにおいては国司の進止にあたはず」と返答する有様だった。
その後の大庭氏
その後の事件経緯は不明であるが、大庭御厨と下司である大庭氏は存続した。保元元年(1156年)の保元の乱では、大庭景宗の子である大庭景義(兄)、大庭景親(弟)は義朝の配下として参戦。大庭景義は源為朝の矢を受けて負傷し以降歩行困難となり、実権は弟に移ったと見られている。
平治元年(1160年)に平治の乱が起きる。平治の乱における大庭氏の動向は不明だが、こののち景親は平清盛の家人となった。平家の威光を背景に相模国に勢力を拡大し、三浦氏や中村氏を圧迫した。治承4年(1180年)の石橋山の合戦では、相模・武蔵の公称3千騎を引き連れ、源頼朝を敗走させた。
源頼朝は同年の富士川の戦いで平家を敗走させ、関東の支配を確立した。大庭景親は斬首されたが、大庭御厨は大庭氏の元に残った。大庭景義は頼朝側に付いていたのである。治承5年7月8日(1181年8月19日)、鶴岡若宮造営遷宮にあたり、大庭御厨庤(神館)の一古娘(巫女)が源頼朝の命で参上奉仕した。しかし建暦3年(1213年)、和田合戦が起きる。大庭景兼は連座し、大庭景宗の系統は滅亡。鎌倉景正の直系である長江氏などは残ったが、鎌倉党は解体していった。