大慶直胤
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出羽国出身[1]。父は出羽国の刀鍛冶であり「安光作」「出羽国住安光」などと切る。作風は備前伝に似るため備州長船安光の末葉ともいわれるが、長船安光自体室町時代、永禄頃までの代で途切れており、後代が出羽国に移り住んだとの記録もない為真相は定かではない。実はそうではなく、直胤の父は鎌鍛冶であった。直胤は俗名を庄司(荘司)箕兵衛といい、安光の次男として最初父のもとで鍛錬技術を学び、20代半ばで江戸に出て正秀の門弟となり初銘を「次郎安光」を名乗った。しかし、その技量が余りにも類まれであったため正秀の門弟となって間もなく「直胤」と改し号を「大慶」とした、その為初期銘の作は非常に少ないが、師正秀に習って濤瀾乱刃を手掛け、その後、備前伝に挑戦。さらには相州伝も修め、名工として名をはせた。1857年(安政4年)5月27日没、79歳。「江戸三作」と呼ばれるほど高名な刀工であるが、1853年(嘉永6年)の「松代藩荒試し」では、その作刀の脆弱さが露になり、源清麿の兄の山浦真雄(やまうら まさお。清麿門人の正雄と区別するべく、さねおと読むことがある)の作刀の強靭さが証明された逸話が有名である。ただし、この荒試しは過酷を極め、折れたり曲がったりしないのが不思議なほどのものであり、直胤の刀の損傷が大きかったからといって、脆弱であるとか、品質が劣るとかいう見方をするのは早計である。直胤の刀の見事さは、剣術を能くした幕臣・川路聖謨も認めて絶賛していることは特筆すべき事実である。諸国を旅してまわった人でもある。駐鎚先の地名を、たとえば「シナノ(信濃)」「難波」などと茎に刻している。「にら山」というのもあるが、これは伊豆韮山の江川太郎左衛門の代官所での作。江川英龍は直胤の刀の弟子であり、また生涯の友であった。直胤が旅先の大坂で、かの大塩平八郎の乱に遭遇。状況を手紙にしたため、江川に報告している(小島つとむ「伊豆韮山代官・江川太郎左衛門英龍と大慶直胤 (上)(下)~その密な交流に垣間見る江戸後期の日本~」『刀剣美術』刀剣美術707-708に詳しい)。
