大橋智干
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下関市立下関商業学校(現・下関商業高等学校)在学中は、甲子園に4度出場(春2回〈1938年,1939年〉、夏2回〈1938年,1939年〉)。そのうち1939年夏の大会では、正捕手としてチームの準優勝に貢献した[2]。当時のチームメイトに、長富政武(のち大洋)、諏訪裕良(のちに高野裕良に改名。巨人→金星・大映→大洋)がいた[2]。
1940年3月15日に巨人に入団[3]。しかし正捕手の吉原正喜や第2捕手の楠安夫の壁は厚く、僅か5試合の出場に留まり、同年末に退団。巨人で同僚だった鈴木田登満留とともに函館太洋でプレーした[4]。戦後の消息は不明。
内海五十雄の後を継いで、巨人軍の背番号26を付けた選手である[5]。また出場機会はほとんど無かったが、沢村栄治とヴィクトル・スタルヒンの間に座ってミーティングに参加している写真が現存している[6]。