大江通直

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生誕 天暦7年(953年)?
死没 長元2年5月20日1029年7月4日)以前
 
大江 通直
時代 平安時代
生誕 天暦7年(953年)?
死没 長元2年5月20日1029年7月4日)以前
官位 従四位上大学頭
主君 一条天皇三条天皇後一条天皇
氏族 大江朝臣
父母 父:大江澄江
兄弟 為清
朝通、佐国
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大江 通直(おおえ の みちなお、天暦7年(953年)? - 長元2年5月20日1029年7月4日)以前)は、平安時代中期の貴族・学者・文人。参議大江朝綱の孫、従五位上・大江澄江の子。官位従四位上大学頭。『本朝麗藻』に漢詩が載る[1]

元号の勘申

学者として、文章博士式部権大輔大学頭を歴任した。

長和4年(1015年)10月17日、皇太后宮での作文会で序を作った[2]。同年12月4日、敦良親王(後朱雀天皇)の読書始後の作文会で題を献じた。題は「先朝の第三皇子の『御注孝経』を読むを聴く」であった[3][4]

寛仁元年(1017年)8月、一代一度仁王会の呪願を作成した。呪願の趣きは天慶10年(947年)の祖父・大江朝綱の前例によるべしとされたものの、藤原実資が天慶の如しとみなした2箇所について、藤原道長藤原頼通から書き直しを命じられた[5][6]

万寿2年(1025年)2月6日、春日祭使・藤原能信に陪従した文章博士の慶滋為政大江挙周の服装について、為政が宿装束、挙周が衣に半靴だったことを「太だ軽々たり」と批判した[7]

治安2年(1022年)5月19日、省試の題者となるも、病気を理由に参朝しなかった。この時の題「養民在恵」は、藤原広業が出題したものだったが、広業は、先月が母の一周忌であり、今月は軽服だから憚られるといって、出仕しなかった。しかしながら、の軽服は12ヶ月が限度であると実資が指摘している。また、通直も「題者は二人であるべきだが、広業が承引しない」と主張しており、通直が参朝しない理由はこれではないかと推測されている。結局この日の省試は停止となり、後日、広業を題者として行えとする宣旨が下った。なお、通直が式部省の門に来たとか、関白・頼通のもとに来たという話を後に実資は訊いている[7]

長元2年(1029年)5月、卒去[8]。77歳か[9]

通直は寛弘9年・長和元年(1012年)[10]、長和6年・寛仁元年(1017年)[11]万寿5年・長元元年(1028年)[12]の3回に渡り新元号を勘申している。

このうち、寛弘9年・長和元年(1012年)の改元で左大臣・藤原道長は「『寛仁』を勘申せよ」と通直ともう一人の文章博士・菅原宣義に度々命じるが、二人は出典が見つけられないとして、その勘申を拒む。しかし、「寛仁」はその前の長保6年・寛弘元年(1004年)の改元の際に、大江匡衡が勘申するも、「仁」が一条天皇の(懐)にあるため避けるべきとされていた元号だった[13]。道長から相談を受けた藤原実資も『漢書』から「寛仁愛人、意翻如也。」の出典を即答しており、「出典が見つけられない」は苦しい言い訳といえる[14][15]

長和6年・寛仁元年(1017年)の改元の際にも、道長は再び「寛仁」に執着したが、通直と宣義は「寛仁」を勘申しなかった。2月に右大臣藤原顕光から二人の勘文を見せられた道長は「不快である。変えさせるべきだ」と命じるも[16]、4月の改元定で二人が「寛仁」を勘申することはなかった[15]。一方で、藤原広業は「寛仁」を勘申し、藤原顕光も一条天皇の諱に「仁」が有るといえども、一文字だけなら避けるべきものではないと主張し、新元号は寛仁に決まった[17][11]

通直らが頑なに「寛仁」の勘申を避けた理由について、人が玄宗の諱(基)を避けて「」を「永」といった故事に倣ったとする説がある(今浜通隆)[18]

なお、万寿5年・長元元年(1028年)の改元の際、通直は「玄通」を勘申している[19]

官歴

系譜

尊卑分脈』による

脚注

参考文献

関連項目

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