菅原宣義
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文章生から式部丞を経て、長保2年(1000年)から寛弘7年(1010年)まで大内記を務める。この間、東宮・居貞親王の東宮学士を兼ね、寛弘6年(1009年)11月と12月には敦良親王(のち後朱雀天皇)に『漢書』『後漢書』を読書した[1]。また、長保5年(1003年)11月27日と28日の作文会に参加し、題を出し、序を書いている[2]。
寛弘7年(1010年)右少弁に遷り、寛弘8年(1011年)正月に弁官の労により従四位下に叙せられるが、まもなく弁官を去って兵部権大輔に転任された。同年6月に居貞親王が践祚(三条天皇)した際、宣義は践祚の奉表を作成した[3]。なお、同年の三条天皇の即位にあたって、宣義は東宮学士の功労により正四位下に叙せられた可能性もある。またこの頃、以下のような文書を作成している。
- 長保3年(1001年)法務大僧正・勧修の辞表[4]。
- 寛弘8年(1011年)冷泉院の三十五日法事の御願文[5]。
- 長和元年(1012年)皇太后・藤原彰子が亡き一条天皇の為に営んだ講説の願文[6]。
- 長和2年(1013年)仁王会の呪願文[7]。
- 長和5年(1016年)左大臣・藤原道長の五十賀の寿命経5000巻の巻数の文[8]。
寛弘9年・長和元年(1012年)の改元の際、文章博士として新元号を勘申する[9]。このとき、藤原道長は「『寛仁』を勘申せよ」と宣義ともう一人の文章博士・大江通直に度々命じたが、二人は出典が見つけられないとして、その勘申を拒んだ(詳細は寛仁#藤原道長の執着)[10][11]。
長和4年(1015年)5月に仁王会の呪願文を頼まれたが、病の為、参入しなかった[12]。同月には大風により自宅が倒壊し、自他の児童七人と共に閉じ込めらるも、幸いにして全員が怪我もなく救助されている[13]。
長和6年・寛仁元年(1017年)の改元にあたって新元号を勘申するも、直後の4月22日に没したため、宣義の勘申したものは忌むべきものとして候補から外された[14][15]。