大池寺
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| 大池寺 | |
|---|---|
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| 所在地 | 滋賀県甲賀市水口町名坂1168 |
| 位置 | 北緯34度59分02秒 東経136度10分18秒 / 北緯34.98389度 東経136.17167度座標: 北緯34度59分02秒 東経136度10分18秒 / 北緯34.98389度 東経136.17167度 |
| 山号 | 龍護山 |
| 宗派 | 臨済宗妙心寺派 |
| 本尊 | 釈迦如来 |
| 創建年 | 天平年間(729年 - 784年) |
| 開山 | 行基 |
| 中興年 | 寛文7年(1667年) |
| 中興 | 丈巌慈航 |
| 正式名 | 龍護山大池寺 |
| 札所等 | びわ湖百八霊場第82番 |
| 文化財 |
木造釈迦如来坐像(市指定有形文化財) 庭園(市の名勝) |
| 法人番号 | 7160005002738 |


大池寺(だいちじ)は、滋賀県甲賀市水口町にある臨済宗妙心寺派の寺院。山号は龍護山。本尊は釈迦如来。本尊は甲賀三大仏の一つである。
寺伝によると天平年間(729年 - 784年)に行基がこの地を訪れた時、日照りに悩む農民のために漢字の「心」の字の形に4つの池「心字の池」を掘り、灌漑用水を作った。そして、その中央に法相宗の邯鄲山青蓮寺を建立して一刀三礼の自刻の丈六釈迦如来坐像を安置したのが始まりであるという[1]。その後に子院を8か寺持つ七堂伽藍を備える天台宗の寺院となったという[1]。また、「心字の池」はその後一千年以上にわたって灌漑用水として周囲の水田を潤してきたという[2]。
鎌倉時代に聖一国師の孫弟子である無才智翁禅師が入寺して臨済宗の寺院となる[1]。また、鎌倉時代末期には那坂寺とも呼ばれていた[3]。
戦国時代の天正4年(1576年)に織田信長が安土城を築城するため、全ての建物が持ち去られて仏像のみが残ったとも[3]、天正5年(1577年)に信長と六角承禎との合戦に巻き込まれてことごとく焼失したともいう[1]。それでも、本尊の釈迦如来坐像はからくも焼け残ったが、以後約90年間もの間そまつな草庵に安置され、風雨にさらされた[1]。
江戸時代の寛永11年(1634年)に当寺の近くに水口城が築城されるが、小堀遠州はそこで作事奉行に任じられていた。遠州は水口城の完成を祝して当寺に枯山水の蓬莱庭園を作成したという[1]。
寛文7年(1667年)に京都妙心寺の丈巌慈航禅師が来訪して草庵の釈迦如来坐像を見、当寺の再興のために住山を決意する[1]。寛文8年(1668年)には後水尾上皇より銀百両を下賜され、大坂の泉屋より材木が寄進される[3]。
寛文9年(1669年)には寺名を邯鄲山青蓮寺から行基が作った大きな池に因んで龍護山大池寺に改名し、臨済宗妙心寺派の寺院となった[1]。
寛文10年(1670年)に当地の地頭である信長の甥織田正信が大池寺の開基となり、多くの寄進を行って本堂、庫裡が完成した。こうしたことから大池寺の寺紋は織田木瓜となっている。また、仙台藩第5代藩主伊達吉村の父伊達宗房なども寄進を行っているが[1]、延宝3年(1675年)には仙台藩士の寄進によって仏像が整備され、延宝4年(1676年)には仙台藩士によって梵鐘が寄進され、天和2年(1682年)には仙台藩士の寄進によって堂舎に瓦が葺かれている[3]。
近代に入り、長らく住持が不在の時期があったため庫裏が崩壊するなどしていたが、1937年(昭和12年)に龍巌月泉が住持となって復興に当たった[1]。
当寺の周囲は行基が作ったという池を中心とした名坂大池寺自然公園がある。
境内
文化財
前後の札所
- びわ湖百八霊場
- 81 願隆寺 - 82 大池寺 - 83 大徳寺
所在地
- 滋賀県甲賀市水口町名坂1168