大立廉
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人物像
大立が米子に戻った理由について、『勝田ヶ丘の人物誌』106-107頁によれば、「大立が、大阪からまっすぐ製鋼所に帰ったのは、高等工業時代、坂口家から学費の援助を受けたことが一つの理由であったと思われる。日露戦争の結果、工業近代化が進展するなかで、彼のような新進気鋭の技術者が、片田舎の小さな企業にとどまることは到底考えられなかったであろう。それだけに、大立の存在が各方面から注目されたことはもとよりだが、実際、技術的に成功していたことも、当時の資料によって十分うかがうことができる。」という。
『財界人物選集』 昭和14年(1939年)によれば大立の肩書は「従七位、在郷陸軍歩兵中尉、米子商工会議所議員、成実村会議員、鳥取県鉄工機械器具工業連合会理事長、在郷軍人会成実分会顧問、日本曹達(株)理事米子製鋼所工場長」である。
米子製鋼所について、『勝田ヶ丘の人物誌』106頁に「米子製鋼所と言えば、米子では明治以来発達した基幹産業の一つで、特に戦前の市民には馴染み深く、戦時中は学徒動員して増産につとめた軍需工場であった。その創立は、実に明治三十八年にさかのぼる。産業革命の先駆者であった初代坂口平兵衛らによって米子町内に設立され、刃物鋼などの特殊鋼を生産し、その製品はほとんど軍需用として、砲兵工廠や海軍工廠などに送られた。」とある。
家族
参考文献
- 『財界人物選集』 1939年 148頁
- 『勝田ヶ丘の人物誌』(編集・勝田ヶ丘の人物誌編集委員会、発行・鳥取県立米子東高等学校創立百周年記念事業実行委員会 2000年 106-108頁)