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近代

近世と現代の間の時代 From Wikipedia, the free encyclopedia

近代(きんだい、: modern period)は、時代区分の一つであり、一般には近世の後、現代の前に位置づけられる時代をいう。もっとも、近代の始期・終期は地域や分野、また歴史観によって異なり、単一の年代で一律に定められるものではない。近代は、しばしば国民国家主権国家体制資本主義市民社会産業化科学技術官僚制学校教育軍事制度などの形成・展開と結びつけて説明される。

近代という語は、単に「現在に近い時代」を意味するだけでなく、前近代的な政治・社会・経済・文化の秩序から、新しい制度や価値観が形成される時代を指す概念としても用いられる。ただし、近代化の過程は地域ごとに異なり、西ヨーロッパで形成された近代の諸要素が、そのまま他地域に同じ順序・同じ形で現れたわけではない。そのため、近代をめぐっては、時代区分としての近代、社会変動としての近代化、思想・文化上の近代性を区別して考える必要がある[1]

概説

ワット型の蒸気機関。産業革命は、近代を説明する代表的な画期の一つとされる。

近代は、歴史学・社会科学・思想史・文化史などで広く用いられる時代概念である。ヨーロッパ史では、宗教改革大航海時代主権国家体制の成立、市民革命産業革命などを経て、封建的・身分制的秩序から、資本主義的経済、国民国家、市民社会、近代的法制度が形成されていく時代として説明されることが多い。一方、アジア・アフリカ・ラテンアメリカなどの諸地域では、欧米諸国との接触、植民地化、開港、条約体制、国家改革、独立運動などと結びついて近代が論じられることが多く、近代の始まりや性格は地域によって大きく異なる[1][2]

近代を理解するうえでは、「近代」と「近代化」との区別が重要である。近代は時代区分を指す語であるのに対し、近代化は、政治・経済・社会・文化の諸制度が変化し、近代的な制度や意識が形成されていく過程を指す。近代化は、封建社会から近代資本主義社会への移行として捉えられる場合もあれば、産業化を基礎として、伝統的社会からどの程度離脱したかを測る概念として用いられる場合もある[1]

ただし、近代化は必ずしも自由化・民主化・人間解放のみを意味するものではない。近代国家の形成は、行政制度、学校制度、軍事制度、交通通信、産業技術の発達を伴う一方で、戦争、植民地支配、社会的格差、労働問題、環境問題なども生み出した。そのため、近代は「進歩」や「発展」の時代としてだけでなく、国家権力・資本主義・帝国主義・社会問題が複雑に絡み合う時代としても把握される[1]

日本史においては、一般に明治維新以後を近代とする見方が広く用いられる。ただし、その始期については、幕藩体制の動揺が進んだ天保期に求める見方、ペリー来航・開国を画期とする見方などがあり、また近代の終期についても、第二次世界大戦の終結を画期とする見方のほか、資本主義の発展段階や社会運動の展開を重視する区分がある[3]

範囲

近代の範囲は、地域や分野によって異なる。ヨーロッパ史では、中世の後に近世を置き、その後に市民革命・産業革命以後の近代を置く区分が用いられることが多い。一方、日本史・東アジア史・世界史の文脈では、欧米諸国との接触、開港、植民地化、国家改革、産業化、独立運動などを画期として近代が論じられる場合がある[1][3]

そのため、近代は単なる年代区分ではなく、国家、社会、経済、文化の変容を含む歴史概念でもある。ただし、西ヨーロッパで成立した近代化の過程をそのまま他地域の基準とすると、各地域の固有の歴史的条件や、植民地支配・外圧・民族運動などの問題を見落とすおそれがある[2]。近代化論においても、近代化を封建社会から近代資本主義社会への移行として捉える見方と、産業化を基礎に伝統社会からの離脱を測る見方があり、近代の理解には複数の枠組みが存在する[1]

ヨーロッパ

ヨーロッパ史において近代は、ルネサンス宗教改革大航海時代主権国家体制の成立、科学革命啓蒙思想市民革命産業革命などと結びつけて説明されることが多い。もっとも、ヨーロッパ史では「近世」と「近代」を区別する用法があり、15世紀末から18世紀ごろまでを近世、18世紀末以降を近代とする区分も用いられる。

政治面では、封建的・身分制的秩序から、主権国家、官僚制、常備軍、立憲政治、国民国家などへの変化が進んだ。経済面では、商業の拡大、植民地貿易、資本蓄積、工場制工業、産業資本主義の発展が近代の重要な要素となった。思想・文化面では、個人、理性、自由、権利、公共性、国民、進歩などの観念が、政治運動や社会改革と結びついて広がった。

19世紀から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパ諸国はアジアアフリカオセアニアなどへ植民地支配を拡大した。とくに1880年代から1914年にかけて、ヨーロッパ列強はアフリカ大陸の土地と資源をめぐって競合し、イギリスフランスポルトガルドイツイタリアスペインベルギーなどが植民地支配を広げた。1914年までにアフリカ大陸のほぼ全域はヨーロッパ諸国の支配下に置かれ、独立を保ったのはリベリアエチオピアに限られた[4]

それとほぼ同時期、オスマン帝国オーストリアロシアとの対立、さらにはギリシャ独立戦争第一次バルカン戦争などによってバルカン半島における領土をほぼ全て喪失。バルカン半島ではギリシャルーマニアモンテネグロセルビアブルガリアアルバニアといった国々が独立した。しかし、新たに独立した国々は領土分配を巡って対立することがあった(例:第二次バルカン戦争)。こうして、バルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれた。

20世紀前半のヨーロッパは、第一次世界大戦戦間期(及びその時期に発生した世界恐慌)、第二次世界大戦を通じて大きく変化した。第一次世界大戦末期から戦後にかけては、世界的なインフルエンザ流行が発生し、戦争によって生じた不衛生な環境、兵営の過密、戦時宣伝による公衆衛生上の警告の妨げ、兵士の世界的移動などが感染拡大を助長したとされる[5]

東ヨーロッパ中央ヨーロッパでは、第一次世界大戦中およびその直後に多数の国々が再独立した。その例としてウクライナがあるが、同国はソビエト・ウクライナ戦争ウクライナ・ポーランド戦争によって再び滅亡した。また、チェコ人とスロバキア人が共同でチェコスロバキアを建国。ハンガリーはオーストリアからの完全独立を果たしはしたが、トリアノン条約により領土の約三分の二を周辺諸国に割譲した。

戦間期には、第一次世界大戦前のヨーロッパ国際秩序を支えていた勢力均衡が揺らぎ、国際秩序の再編が試みられた。国際連盟は、第一次世界大戦後に国際的な安全保障と平和の維持、加盟国間の経済協力を目的として設立された[6]。一方、1929年のウォール街大暴落を契機とする世界恐慌は、世界各地の都市・工業・農村に深刻な影響を及ぼし、国際貿易、所得、税収、価格、利潤を大きく落ち込ませた[7][8]

ただし、ヨーロッパの近代も一様ではない。イギリスフランスドイツロシア東欧南欧などでは、国家形成、産業化、農奴制・身分制の解体、議会制や憲法の発達の時期や形態が異なった。そのため、ヨーロッパ近代を説明する場合にも、単一の発展段階としてではなく、地域差を含む複数の近代として理解する必要がある。

アメリカ

エマニュエル・ロイツェ『帝国の道、西へ』。アメリカ合衆国の西方拡大を主題とする作品。

アメリカ大陸における近代は、ヨーロッパ諸国による進出と植民地化、先住民社会の変容、大西洋をまたぐ貿易、奴隷制、移民、独立革命、国民国家形成などと深く関わった。北アメリカでは、アメリカ独立戦争アメリカ合衆国憲法の制定が、近代的な共和制国家の形成を示す画期とされる。

19世紀のアメリカ合衆国では、領土拡大、奴隷制をめぐる対立、南北戦争、再建期、工業化、移民の増加、都市化などが進んだ。交通・通信インフラの整備とともに近代的な産業経済が形成され、企業は支配的な事業組織となった。1890年には、アメリカにおける反独占法の基礎となるシャーマン反トラスト法が制定され、取引を制限する契約・結合・共謀を禁じた。20世紀初頭には、アメリカの一人当たり所得と工業生産はイギリスを除く多くの国を上回る水準に達したが、長時間労働や危険な労働条件を背景に、労働組合運動も広がった。1911年には、合衆国最高裁判所スタンダード・オイルを不合理な独占と判断し、同社グループを34の独立会社に分割するよう命じた[9]

一方、ラテンアメリカでは、スペインポルトガルによる植民地支配のもとで社会・経済構造が形成され、19世紀には各地で独立運動が展開した。独立後も、土地所有、輸出経済、軍部、教会、地域権力、外国資本との関係などが、各国の近代国家形成に大きな影響を与えた。

20世紀後半のラテンアメリカでは、冷戦構造のもとで政治的分極化が進んだ。1970年代には左派勢力が政治的影響力を拡大し、それに対抗する右派勢力、教会関係者、上層階級の一部がクーデターを支持した。南アメリカの多くの国では、アメリカ合衆国の支援を受けた軍事独裁政権が成立し、コーノ・スールの政権はコンドル作戦で協力して、多数の左派反体制派を殺害した[10]

アメリカ大陸の近代は、ヨーロッパからの制度・思想の移植としてだけでなく、植民地支配、奴隷制、先住民社会、移民社会、独立運動、工業化、冷戦期の政治変動が交錯する過程として捉える必要がある。

アフリカ

1913年ごろのアフリカにおけるヨーロッパ列強の植民地支配を示す地図。

アフリカにおける近代は、ヨーロッパ諸国による植民地化と、その後の独立運動・脱植民地化の歴史と深く関わる。19世紀後半、ヨーロッパ列強はアフリカ大陸の資源と市場をめぐって競合し、1884年から1885年のベルリン会議以後、アフリカ分割は急速に進んだ。イギリスエジプトから南アフリカに至る東部・南部アフリカの広大な植民地を支配し、フランスは西アフリカで大きな勢力を伸ばした。ポルトガルドイツイタリアスペインもそれぞれ植民地を獲得し、ベルギー国王レオポルド2世コンゴを事実上の私領として支配した。1914年までに、アフリカ大陸のほぼ全域はヨーロッパ列強の支配下に置かれ、独立を保ったのはリベリアエチオピアに限られた[4]

このため、アフリカの近代は、ヨーロッパで発達した近代国家・資本主義・帝国主義の拡大を受ける側の歴史としても位置づけられる。植民地支配は、行政制度、交通、商品作物、鉱山開発、労働移動、都市形成などを変化させた一方、現地社会の政治的自律、土地利用、生活様式、宗教・文化に大きな影響を及ぼした。20世紀には、第一次世界大戦・第二次世界大戦、国際連盟・国際連合体制、民族主義運動、冷戦構造などを背景として、アフリカ各地で独立運動が展開した。

アジア

アジアにおける近代は、欧米諸国の進出、開港、条約体制、植民地化、国家改革、民族運動、社会改革などと結びついて展開した。19世紀以降、アジアの諸地域では、欧米列強との軍事的・経済的接触を契機として、政治制度、軍事制度、教育制度、産業政策、交通通信、法制度などの改革が進められた。

ただし、アジアの近代化は、欧米の制度を単純に受け入れる過程ではなかった。各地域では、既存の王朝・官僚制・身分制・宗教・地域社会の構造を背景に、外圧への対応、国内改革、独立維持、植民地支配への抵抗、民族運動などが複雑に絡み合った。日本中国朝鮮半島ベトナムインド東南アジアイスラム世界などでは、それぞれ異なる条件のもとで近代が形成された。

日本

明治天皇。明治維新以後、日本では中央集権国家の形成と近代化政策が進められた。

日本史における近代は、一般に明治維新以後を指すことが多い。これは、幕藩体制の廃止、廃藩置県による中央集権国家の形成、大日本帝国憲法の制定、資本主義経済・近代的軍事制度・学校制度の整備などを重視する区分である。ただし、始期については、国内的条件の形成を天保期に求める見方、ペリー来航と開国を画期とする見方などもあり、終期についても、第一次世界大戦後、米騒動第二次世界大戦終結などを画期とする複数の区分がある[3]

明治政府は、版籍奉還・廃藩置県、地租改正徴兵令、近代的法典の編纂、帝国議会の開設などを通じて、中央集権的な近代国家を形成した。もっとも、大日本帝国憲法体制では、天皇主権、国務大臣の天皇への責任、統帥権の独立などが制度上の特徴となり、議会政治には制約も残った[11][12]

経済面では、開港後の外国貿易、富国強兵殖産興業政策、富岡製糸場などの官営模範工場、日本銀行を中心とする金融制度、鉄道電信郵便などの交通通信網の整備を通じて、近代的な産業経済が形成された。製糸業・綿糸紡績などの繊維工業が先行し、日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦を経て、製鉄・造船・機械・化学工業などの重工業も発展した[13][14]

社会面では、四民平等が掲げられ、身分制の表徴的差別は制度上廃止されたが、華族・士族・平民の区別や、地主・小作関係、家父長的な家制度などは長く残った。工業化と都市化は労働者層や都市中間層を形成し、労働運動、農民運動、婦人運動、部落解放運動などの社会運動を生んだ一方、国家は治安警察法治安維持法などによって社会主義運動や労働運動を統制した[15][16]

教育・文化面では、学制の公布、帝国大学の設立、教育勅語、専門学問・科学研究機関の整備などにより、近代的な教育・学術制度が形成された。文学・美術・建築・演劇・音楽・宗教の分野でも、西洋文化の受容と近世以来の文化の再編が進み、文明開化、自由民権思想、大正デモクラシー、モダニズム、戦時文化統制などが重なり合った[17][18][19]

昭和戦前期には、昭和金融恐慌世界恐慌満洲事変日中戦争を経て、軍部の政治的影響力と戦時統制が強まった。国家総動員法のもとで経済・労働・言論・国民生活への統制が進み、1945年の敗戦後には、占領改革、日本国憲法の制定、非軍事化、民主化改革によって、戦前の大日本帝国憲法体制は解体され、戦後日本の現代へ移行した[20][12]

中国

孫文。辛亥革命後、中国では共和制国家の形成と軍閥割拠が続いた。

中国における近代は、一般にアヘン戦争以後、欧米列強との接触と不平等条約体制、清朝の改革、革命運動、国民国家形成の過程として論じられる。19世紀半ば以降、中国は開港、租界、関税自主権の制約、領事裁判権、列強の勢力圏拡大などに直面した。

清朝は、洋務運動、変法運動、義和団の乱後の新政などを通じて、軍事・産業・教育・官制の改革を試みたが、王朝体制の維持と近代改革とのあいだには大きな緊張があった。20世紀初頭には、辛亥革命によって清朝が倒れ、中華民国が成立した。

中華民国成立後も、中国の近代国家形成はただちに安定したわけではなかった。20世紀初頭の革命後、中国各地の軍閥は、北京政府の支配をめぐって同盟関係を変えながら抗争した。軍閥時代には、さまざまな軍閥が北京政府を支配したが、他の軍閥は一時的な政府を承認せず、それぞれ独自に行動したため、安定した統治体制は形成されなかった。この時期の軍人主導の諸政府は、総称して北洋政府と呼ばれる。軍閥時代は、1927年ごろに終わったとされる[21]

中国の近代は、西洋化や制度改革だけでなく、半植民地化への抵抗、民族主義、共和主義、社会主義、農村社会の変容、知識人運動、五四運動などと結びついて展開した。また、日中戦争、国共内戦、中華人民共和国の成立などを経て、中国近代の問題は20世紀の革命と国家建設の問題へとつながっていった。

朝鮮半島

朝鮮半島における近代は、李氏朝鮮末期の開港、清・日本・ロシアなどの影響力の競合、近代改革、植民地化、独立運動と深く関係している。19世紀後半、朝鮮は日本や欧米諸国との条約締結を通じて開港し、従来の東アジア国際秩序から近代国際関係へと組み込まれていった。

朝鮮国内では、甲申政変甲午改革大韓帝国の成立などを通じて、官制、軍制、身分制、教育、財政などの改革が進められた。しかし、日清戦争・日露戦争を経て日本の影響力が強まり、韓国併合によって朝鮮は日本の植民地となった。

植民地期には、土地調査事業、産業政策、教育制度、同化政策などが進められた一方、三・一運動をはじめとする独立運動が展開した。朝鮮半島の近代は、国家改革と植民地支配、民族運動と社会変動が交錯する過程として位置づけられる。

ベトナム

ベトナムにおける近代は、阮朝の成立、フランスの進出、植民地化、民族運動、独立運動と結びついている。19世紀後半、フランスは軍事的圧力と条約を通じてベトナムへの支配を拡大し、ベトナムはフランス領インドシナの一部となった。

植民地支配のもとで、行政制度、教育制度、交通、プランテーション、鉱山、都市などが変化したが、それはフランスの植民地経済と統治に組み込まれた形で進んだ。一方、科挙官僚層、知識人、農民、労働者などの間では、王政復古、改革、民族主義、社会主義など多様な形の抵抗運動が生まれた。

ベトナムの近代は、植民地支配による制度変化と、それに対する民族的・社会的抵抗の歴史として理解される。

イスラムの世界

アブデュルメジト1世。オスマン帝国では、タンジマート改革を通じて帝国の再編と近代国家化が試みられた。

イスラム世界における近代は、オスマン帝国、イラン、エジプト、中央アジア、南アジア、東南アジアなど、地域ごとに大きく異なる。18世紀末から19世紀にかけて、ヨーロッパ諸国の軍事的・経済的進出が強まり、イスラム世界の諸国家は軍制、官僚制、法制度、教育、財政、交通などの改革を迫られた。

オスマン帝国では、タンジマート改革、憲法制定、青年トルコ運動などを通じて、帝国の再編と近代国家化が試みられた。エジプトでは、ムハンマド・アリー朝の改革やイギリスの支配が、軍事・産業・農業・行政に大きな影響を与えた。イランでは、ガージャール朝期の列強進出、タバコ・ボイコット運動、立憲革命などが近代の重要な画期となった。

イスラム世界の近代化は、西欧制度の導入、イスラム法と近代法の関係、宗教改革、民族主義、植民地支配への抵抗、世俗主義と宗教復興などの問題と結びついている。そのため、イスラム世界における近代は、単なる西洋化ではなく、既存の宗教・社会秩序と外圧への対応が交錯する過程として捉える必要がある。

近代をめぐる議論

近代は、単なる年代区分ではなく、政治・経済・社会・文化・思想の変化を含む歴史概念である。そのため、近代の範囲や意味をめぐっては、さまざまな議論がある。とくに、近代をいつからいつまでとするか、近代化をどのような過程として捉えるか、西ヨーロッパの歴史をどの程度基準とするか、近代を進歩として評価するか、あるいは支配・戦争・環境破壊・社会的抑圧を伴う過程として捉えるかが、主要な論点となる[1][3]

近代後期の終期と現代

近代、または近代後期がいつ終わったのか、あるいはそもそも終わったとみなせるのかについては、いくつかの見方がある。近代後期の終わりを、第二次世界大戦後の現代史の始まりに置く見方がある一方で、近代の諸特徴が20世紀後半以降も継続しているとみる立場もある。環境問題への関心が1950年ごろから高まったことを、近代後期の終わりを示す指標とみる研究もあり、この見方では、人間が自然を支配できるという近代的な自信が、そのころを境に揺らぎ始めたとされる[22]

冷戦も、近代後期から現代を区分するうえで重要な時代概念である。冷戦は、第二次世界大戦後に始まった、アメリカ合衆国とソビエト連邦、およびそれぞれの同盟国である西側陣営と東側陣営との間の地政学的緊張の時代であった。始期と終期について歴史家の見解は完全には一致しないが、一般には1947年3月12日のトルーマン・ドクトリンから、1991年12月26日のソビエト連邦の崩壊までを指すとされる[23]

ポストモダニズムは、モダニズムが掲げた「大きな物語」やイデオロギーに対して懐疑的な態度をとる知的立場、または言説の様式とされる。ポストモダニズムは、17世紀以来の啓蒙思想的合理性に結びつく見方を問い直し、あるいは批判するものとして説明される[24][25][26][27]

脱工業化社会は、経済において第二次産業である製造業よりも、第三次産業であるサービス部門がより大きな富を生み出すようになった社会段階を指す。この用語はアラン・トゥレーヌに由来し、ポスト・フォーディズム情報社会知識経済、脱工業経済、後期近代、ネットワーク社会などの社会学的概念とも密接に関係している。一般に、物の生産からサービスの提供へと経済の重心が移り、知識やアイデアの生産が経済成長の重要な手段となる点が、脱工業化社会の特徴として挙げられる[28][29][30]

情報時代は、20世紀半ばに始まったとされ、産業革命によって確立された伝統的な産業中心の経済から、情報技術を基盤とする経済への急速な時代的転換によって特徴づけられる。情報時代の中心には、MOSFET、集積回路、マイクロプロセッサ、コンピュータ、デジタル携帯電話、インターネットなどの技術の発展があった[31][32][33][34]

時代区分としての近代

近代の始期と終期は、地域や研究分野によって異なる。ヨーロッパ史では、近世と近代を区別し、18世紀末の市民革命や産業革命を近代の画期とすることが多い。一方、日本史では、一般に明治維新以後を近代とする見方が広く用いられるが、その始期については、幕藩体制の動揺と国内的条件の形成を重視して天保期に置く見方、ペリー来航と開国を画期とする見方などがある[3]

近代の終期についても一定しない。資本主義の発展段階を重視する立場では、帝国主義段階に入る1900年前後を画期とする場合がある。また、第一次世界大戦後の社会変動や労働運動・社会主義運動の高まりを重視して、1918年の米騒動前後を現代の始まりとする見方もある。さらに、第二次世界大戦の終結と大日本帝国憲法体制の解体、日本国憲法の制定を重視して、1945年を近代の終期とする区分も広く用いられる[3]

このように、近代は一つの暦年代で機械的に区切られるものではない。政治体制を重視すれば憲法・議会・国家制度の変化が、経済を重視すれば資本主義・産業化・市場形成が、社会史を重視すれば身分制・家族制度・労働・社会運動が、文化史を重視すれば教育・出版・思想・芸術の変化が、それぞれ異なる画期を示す。そのため、近代の時代区分は、何を基準にするかを明示して用いる必要がある[3]

近代化論

近代と関連して用いられる概念に、近代化がある。近代化は、歴史的には、封建社会から近代資本主義社会へ移行する過程として捉えられてきた。一方で、第二次世界大戦後のアメリカ合衆国では、産業化を基礎として、伝統社会からどの程度離脱したかを測る概念として近代化論が展開した。この場合、都市化、識字率、所得水準、社会的移動、商品化、工業化、マス・メディア、官僚制的政治形態などが近代化の尺度とされた[1]

近代化論は、日本を非西欧地域でありながら、植民地化されずに近代化を進めた例として重視した。日本近代化をめぐる研究は、後発国の発展モデルを考えるうえで注目されたが、その一方で、近代化を産業化や制度整備の尺度に偏って捉え、民主化、個人の価値体系、人間解放、社会的抑圧の問題を十分に扱わないという批判も受けた[1]

そのため、近代化は、直線的に進む発展過程としてだけではなく、創造的であると同時に破壊的な過程としても理解されるようになった。産業化や都市化、教育制度の普及、科学技術の発展は、生活水準や社会参加の拡大をもたらす一方で、貧困、労働問題、地域格差、公害、自然破壊、戦争動員などの問題も生んだ。したがって、近代化を評価する際には、制度や経済成長だけでなく、それが人間の自由・平等・生活・環境にどのような影響を与えたかをあわせて考える必要がある[1]

西ヨーロッパ中心の近代像への批判

近代をめぐる議論では、西ヨーロッパの歴史を基準にして他地域を評価する方法も問題となる。西ヨーロッパでは、市民革命、産業革命、国民国家、資本主義、市民社会、個人の権利などが近代の典型的要素として説明されてきた。しかし、アジア・アフリカ・ラテンアメリカの近代は、欧米列強との接触、植民地化、開港、不平等条約、民族運動、国家改革などと深く結びついており、西ヨーロッパと同じ順序や形で進んだわけではない[2][1]

日本近代をめぐっても、西ヨーロッパ型の市民革命を経なかったこと、明治維新がブルジョア革命として徹底しなかったこと、封建的土地制度や家父長的関係が残存したこと、天皇制国家のもとで資本主義化が進んだことなどが論じられてきた。一方で、日本が欧米列強の圧力のもとで国家の独立を維持しつつ近代化を進めた点、東アジアの国際条件のなかで帝国主義国となった点も、日本近代の特質として論じられる[2]

ただし、近代化を西ヨーロッパとの差異だけで説明すると、各地域の固有の条件や、世界資本主義・帝国主義の構造を十分に捉えられない。アジアの近代化は、欧米列強による外圧や植民地支配と不可分であり、同時に各地域内部の社会構造、民衆運動、支配層の対応、宗教・文化・思想の変容とも結びついていた。そのため、近代は単一のモデルではなく、複数の地域的・歴史的条件のもとで形成されたものとして理解する必要がある[2]

進歩と矛盾

近代はしばしば、自由、平等、民主主義、科学、合理性、産業化、教育の普及、生活水準の向上などと結びつけて語られる。実際に、近代化の過程では、身分制の廃止、法制度の整備、学校教育の普及、交通通信の発達、医療・科学技術の発展、出版・新聞・雑誌・放送などによる情報流通の拡大が進んだ。思想や文化の面でも、啓蒙思想、自由民権思想、大正デモクラシー、戦後民主主義など、個人や民衆の自由を求める動きが現れた[19]。20世紀を通じて、世界の一人当たり国内総生産は大きく増加し、医療の改善、平均寿命の延伸、通信技術の発達など、20世紀初頭には存在しなかった財やサービスも普及した。一方で、世界の富裕層と貧困層の格差は広がり、世界人口の大多数はなお貧困の側に置かれていた[35][36][37]

一方で、近代は抑圧や暴力を伴う過程でもあった。近代国家は、徴兵制、戸籍、学校、税制、警察、官僚制などを通じて国民を把握し、動員する力を強めた。資本主義の発展は、賃労働者、都市貧困、長時間労働、女子・年少労働、労働争議、小作争議などの社会問題を生んだ。さらに、帝国主義、植民地支配、総力戦、思想統制、戦時動員、公害、環境破壊なども、近代の負の側面として論じられる。

文化の面でも、近代は自由な表現や市民文化を広げる一方、国家による統制や戦時文化を生んだ。明治期には欧化と国粋、官製文化と在野文化が併存し、大正期には市民文化・大衆文化が広がったが、昭和戦前期には思想・学問・文化・生活への統制が強化された。敗戦後には表現の自由や民主主義が回復したが、占領政策、冷戦、安保問題、マス・メディアの商業化など、新たな課題も生じた[18]

したがって、近代を「進歩」だけで説明することも、「抑圧」だけで説明することも十分ではない。近代は、自由と統制、民主化と動員、科学技術と環境破壊、市民文化と国家文化、国民国家と帝国主義が同時に進行した複合的な過程である。そのため、近代を理解するには、制度・経済・社会・文化を横断して、複数の側面を比較しながら捉える必要がある。

関連項目

脚注

参考文献

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