大給の里道
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概要
この道の前身は、この地域で花沢街道と呼ばれていたものである。郡界川に沿うように上流に向かって進むと、途中で大沼街道と同道しつつ花沢(現・豊田市花沢町)に至った。
旧花沢街道は極力、川岸を避け、坂道を考慮せず、可能な限り直線に近い経路を通っていた。明治中期からこの地域に荷車が普及するようになると、上り下りの多い道は避けられる。折りしもその時期、岩津発電所建設が構想されると、資材や設置機器を運び込む道路が必要となった。そうした時代の動向もあり、花沢街道は改修され、ほぼ現在の道路の原形ができあがった。岩津発電所の完成以降も何度か改修され、発電所と相俟ってガラ紡などの地場産業も発展し、この街道はますます重要性が増した。
1922年(大正11年)11月3日、当時の岡崎商工会議所会頭であった千賀千太郎をはじめ、地域の政界・産業経済界の主要人物が名を連ね、県道への移管陳情が行われた。現在、愛知県道338号花沢桑原線として認定されている県道が一部区間を除き、これに当たる。
花沢街道のうち、桑原から奥殿・宮石を経て川向までを「大給の里道」という。この道路愛称は市民からの公募によって決定したものである。大給松平家の祖、松平乗元が加茂郡(現・豊田市)の大給に居所を置いた大給藩が、のちに額田郡の奥殿に陣屋(奥殿陣屋と呼ばれる)を建て奥殿藩と改称した。(歴史項目の詳細は各内部リンクを参照)
奥殿学区は奥殿陣屋に代表される歴史的な特色があり、社教などで「大給の里」としてこの周辺の郷土を取り上げている。その一方で「大給の里」と呼ぶのに最もふさわしい場所は、大給城の城址がある旧大給村(現・豊田市大内町)であり、この道は「大給の里(へ通じる)道」とでもいったほうが正確である、とする説もある[2]。
接続する路線
- 愛知県道39号岡崎足助線
- 足助街道(旧道)
- 龍渓院道
