大西定彦
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1896年(明治29年)9月13日、当時東京専門学校の教員であった哲学者大西祝の長男として東京府[3]で生まれた。岡山で小中学校に通い、同期に岸信介がいた[4]。1918年(大正7年)第六高等学校二部甲を卒業し、東京帝国大学工科大学電気工学科へ進学した[5]。1921年(大正10年)に同大学を卒業[6]し、日立製作所に入社。
日立製作所副社長を務めた高尾直三郎の海外渡航に随行するなど、経営を学んだ[7]。日立での工場勤務のかたわら、1931年(昭和6年)7月には東北帝国大学工学部講師に任じられた[8]。同大学で「電気機械設計法」などの科目を[9]1941年3月まで担当した[10]。
1941年には日立工場長、第二次世界大戦終結後の1949年(昭和24年)には倉田主税のもとで副社長となった。一時病気療養のため副社長を辞任するが、その後副社長に返り咲いた[11]。重電分野に偏重していた日立において早くから家電生産に取り組み、次期社長の有力候補とも目されていたが、大西は社長就任を辞退し[12]駒井健一郎が新社長となった。
1958年(昭和33年)、久留島秀三郎の後任として日本オペレーションズ・リサーチ学会会長に就任した[13]。1961年(昭和35年)5月から翌年5月まで、電気学会会長を務めた[14]。1968年(昭和43年)には勲三等旭日中綬章を受章した[15]。
1969年(昭和44年)4月27日午後、東京都港区の慈恵医大病院で脳出血により死去。同月30日に霊南坂教会で葬儀が行われた[2]。
脚注
- ↑ 「大西定彦」『人事興信録 第24版 上』人事興信所、1968年、お192頁。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3044857/551。
- 1 2 「訃報 大西定彦氏」『朝日新聞』1969年4月29日、東京 朝刊、15面。
- ↑ 『人的事業大系 製作工業篇上』中外産業調査会、1940年 - 1943年、15頁。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1244454/40。
- ↑ 「岸商相在岡時代の級友会」『汎岡山』、汎岡山社、1942年7月、40-41頁。
- ↑ 『第六高等学校一覧 自大正7至8年』第六高等学校、1913年 - 1926年、289頁。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940382/151。
- ↑ 「付録 卒業生氏名」東京帝国大学、1922年、17頁。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940173/140。
- ↑ 早川 1960, p. 63.
- ↑ 「講師嘱託並解嘱」『官報』第1458号、大蔵省印刷局、日本マイクロ写真、1931年11月7日、159頁。
- ↑ 「電気に関する学校一覧」『電気年鑑 昭和12年(22回)』電気之友社、30頁。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1114997/551。
- ↑ 「講師嘱託並解嘱」『官報』第4300号、大蔵省印刷局、日本マイクロ写真、1941年5月12日、406頁。
- ↑ 鈴木富起人「経営者スカウト 電気機械業界の巻」『新経済』第20巻第3号、新経済社、1960年4月、13頁。
- ↑ 「電機業界の系列と人脈」『新経済』第21巻第2号、新経済社、1961年2月、62頁。
- ↑ 「1958年度総会および研究発表会記事」『経営科学』第2巻3&4、1958年、141頁。
- ↑ “歴代会長”. 電気学会. 2025年12月3日閲覧。
- ↑ 「功労者の栄誉」『通信工業』第8巻第6号、通信機械工業会、1968年6月、41頁。
参考文献
- 早川直伸「日立製作所副社長 大西定彦」『御存知電気男 第1集』電気経済新聞社、1960年、61-64頁。NDLJP:2492455/41。
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