亀城公園にある記念碑
刈谷藩藩士の大野家に生まれた。1845年(弘化2年)4月5日には御小姓御雇大小姓勤となり、6月15日には名を信吾とした。1853年(嘉永6年)には父の大野市右衛門が役儀御免となって隠居。1856年(安政3年)9月13日には奥州領の郡奉行となった。
1863年(文久3年)11月には天誅組が挙兵する長州浪士事件が起こり、刈谷藩家老を務めていた大野は古河藩に送られて入牢した。1868年(慶応4年)3月9日には再び刈谷藩家老となっている。同年秋に行われた明治天皇の東京行幸の際、天皇が境川を渡って尾張藩領から刈谷藩領に入る際には家老の大野が先駆を務めた[1]。
明治維新後には大参事や大区長として廃藩後の整理にあたった。1871年(明治4年)の置県後、同年7月には刈谷士族卒による生産義社を設立して頭取(社長)となった[2]。その後は刈谷村の戸長となった。1879年(明治12年)5月に第1回愛知県会議員選挙が行われると、碧海郡選挙区からは村上忠浄、大野、近藤坦平の3人が当選した[3]。1884年(明治17年)8月に死去した。1926年(大正15年)8月、亀城公園に記念碑が設立された。