大間越関所跡
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深浦町大間越の集落南端近くから津梅川を渡り、山道を登っていくと大間越関所跡に着く。頂上は平坦で老松が残り、番所や柵の配置などが想定できる。海岸に突き出た高所で、往来の取り締まりや藩境の警備に絶好の場所であったと思われる。
大間越関所は、碇ヶ関御関所、野内関所とともに「津軽三関」の1つで、1665年(寛文5年)に、参勤交代が碇ヶ関経由に変更になるまで、津軽藩の大名行列はこの関所を通った。番所役人の構成は4ヶ月交代で勤務した2人の町奉行の他は、町同心警護、町同心、町年寄各15人、名主2人、月行事5人で、その土地の居住者に限られていた。番所の役割は通行人の監視、禁輸品の調査、輸出入品の課税と切手の点検、御仮小屋の管理、藩への連絡、藩境の警備などであった。1717年から1721年の5年間の月平均通行人は40人で、他の関所に比べてはるかに少なかった。1869年(明治2年)に新政府の通達により関所は廃止された[1]。
現在は福寿草が植えられていて、福寿草公園として整備されている。福寿草公園は以前は1980年(昭和55年)からは、関所を守っていた笹森氏の居城だった垣上館跡に整備されていた。垣上館は大間越関所の1つ北の台地の上にあって、道路が国道で分断されるまで水田を耕作していた。そのため、土地の地質・排水が悪く大間越関所跡に移動した[2]。また、大間越関所跡は1976年(昭和51年)に深浦町指定記念物の史跡に指定されている。
津軽藩側の資料では1603年(慶長8年)津軽為信と、秋田に転封になった佐竹義宣の間で、正式に藩境が決定とされる。矢立峠より南の津軽領と、大間越周辺の秋田領を交換したとされるがこれには論議が存在する。秋田側の資料では1618年に高屋豊前ほか2人と、梅津政景が現地で会い、双方相談協議の上境界を決したとされ、梅津政景日記には、その際の経緯が記録されている。この国境確定の後に大間越に関番所が建てられた。1622年には町奉行所が設置された。町奉行所は旧小学校跡地にあった[3]。

