大阪府立港高等学校
From Wikipedia, the free encyclopedia
| 大阪府立港高等学校 | |
|---|---|
|
大阪府立港高等学校 | |
北緯34度40分16秒 東経135度27分55.4秒 / 北緯34.67111度 東経135.465389度 | |
| 過去の名称 |
大阪府立江戸堀高等女学校 大阪府立市岡高等女学校 |
| 国公私立の別 | 公立学校 |
| 設置者 |
|
| 学区 | 大阪府内全域 |
| 設立年月日 | 1911年3月21日 |
| 創立記念日 | 4月26日 |
| 共学・別学 | 男女共学 |
| 課程 | 全日制課程 |
| 単位制・学年制 | 学年制 |
| 設置学科 | 普通科 |
| 学期 | 3学期制 |
| 学校コード | D127210000087 |
| 高校コード | 27129C |
| 所在地 |
〒552-0001 大阪府大阪市港区波除二丁目3番1号 |
| 外部リンク | 公式ウェブサイト |
大阪府立港高等学校(おおさかふりつ みなとこうとうがっこう、英: Osaka Prefectural Minato High School)は、大阪府大阪市港区波除二丁目にある公立の全日制普通科高等学校。略称および通称は
沿革
略歴
1911年3月14日付で文部省告示第61号により、大阪府立江戸堀高等女学校として、大阪市西区江戸堀に設置が認可され[1]、同年3月21日に創立した[2]。
大阪市内では4校目の高等女学校の開設となる。当時大阪市内には、北区に梅田高等女学校、東区に清水谷高等女学校、南区に夕陽丘高等女学校が開設されていたが、西区にはなかった[注釈 1]ため、西区に設置されることになった。
1911年4月に西区江戸堀南通3丁目(現・西区江戸堀2丁目)の大阪市立第一女子手芸学校内で開校した。同年5月に市立大阪高等商業学校仮校舎跡(元・西区第二高等小学校)を仮校舎として移転した。
1914年7月24日、西区市岡町(現・港区波除2丁目)の現在地に新校舎が竣工し移転した[3][2]。移転直後の1914年9月9日付で大阪府立市岡高等女学校へと改称している[2]。開校当初は4年制だったが、1921年に5年制へと修業年限を延長している。
開校当初には他校に先んじて保健衛生活動に力を入れ、1926年には当時ほとんど例がなかった保健室を校内に設置している[4]。栄養不足の生徒が多数に上ったことから、1929年度3学期より希望者に給食を開始した[5]。ほうれん草のおひたし、サバの塩焼きなどの和食のほか、カレーライスや豚カツなど洋食も出された[5]。
開校当初から大正時代にはスポーツ活動が盛んで、卓球や硬式テニスなどで好成績を修めた[6][7]。
1934年9月21日の室戸台風では校舎が高潮で浸水した。校内での人的被害はなかったものの、校舎の大半が使えなくなり、残った教室や講堂などで授業を続けることになった。災害からの復旧として、1936年11月に新校舎が竣工している。
1940年代になると戦時体制の影響を受け、1943年以降学徒勤労動員が実施された。陸軍大阪糧秣廠・住友伸銅所・日立製作所木津川工場などへの動員がおこなわれた[8][9]。
1945年3月13日深夜から14日未明の第一次大阪大空襲では、校舎や校庭に焼夷弾が落下するなどして、校舎に被害を受けた。
終戦直後の1945年9月には枕崎台風により校舎床上浸水の被害を受けている。
港高等学校
学制改革により1947年に新制中学校制度ができたことに伴い、過渡的に併設中学校を設置し、1947年度旧制高等女学校2・3年相当の生徒を併設中学校に移行した。
1948年には新制高等学校制度の発足に伴い、大阪府立港高等学校に改称した。旧制市岡高等女学校は新制高校移行時に「市岡」の名称を使い「大阪府立市岡高等学校」にしたかったとされるが、旧制市岡中学校と競合し、当初はどちらも市岡の名称を使用したいと譲らなかった。最終的には市岡の名称は旧制中学校側に譲り、旧制市岡高等女学校は港高等学校となった[10]。
1948年6月には、大阪府立市岡高等学校(旧制市岡中学校)・大阪市立西華高等学校(旧制西華高等女学校[注釈 2])と生徒・教職員を交流して男女共学を実施した。市岡高等学校(旧制市岡中学校)との交流の対象者は併設中学校3年と高校1年の生徒となり、くじ引きで振り分けられた[10]。
また終戦直後、新制中学校・大阪市立港第一中学校(1949年大阪市立市岡中学校)に校舎の一部を貸し出すことになった。市岡中学校は1947年-1948年、および1950年-1951年の2度にわたり校舎を借用した。
当時義務教育優先として、新制中学校の校舎確保のため市岡中学校に校舎を譲る形で廃校とすることも検討された。市岡中学校は、戦災で廃校となった旧市岡第五小学校(魁国民学校)跡に校地を確保したため、港高校の廃校は回避されている。
また1949年9月15日には、港高校を廃校し、跡地を当時校舎が腐食して使用に耐えない状態だと判断されていた大阪府立西野田工業高等学校の移転先として充てる案が、大阪府会で検討の俎上に上がった。学校関係者が反対運動を起こし、1950年3月には廃校案は撤回された[10]。
1950年にはジェーン台風で校舎が被災した。学校関係の被害額は約600万円相当だとされている[11]。
1973年には従来の制服制度を廃止し、標準服制度へと移行した。
1970年代から1980年代にかけては高校生の急増期にあたっていた。大阪府立高校での高校生受け入れについては、1970年代は急増分は主に新設校で受け入れていたが、1980年代になると新設校の設置を極力抑えて既存校の定員増で対応する方針へと変化した。このことを受けて、1980年には1学年10学級へと増学級となり、ピーク時の1987・1988年度には1クラス48人・14学級へと増加した。生徒増加に伴い、特別教室などを普通教室に転用する策がとられた[12]。
1984年には、室戸台風被災後の1936年に建て直された校舎が老朽化していたことを背景に、8階建ての高層校舎に建て替える案が大阪府教育委員会から提示された。学校側からは、高層校舎が当時ほとんど例を見なかったことや、校舎建て替えはさらなる増学級を前提にしていたことから不安の声が上がったものの、最終的には周辺の民家への影響などを考慮する形で計画を一部変更した上で、校舎を建て替えることにした[13]。校舎改築工事は1985年5月に始まり、1988年に竣工している。
