高知県高岡郡仁井田村下呉地()(現・四万十町下呉地)出身。小学校入学前に小高坂村(現・高知市)へ転居。高知県師範学校附属小学校[注釈 1]を経て旧制高知城東中学校卒業。中学5年の時に一家が東京へ移住したため、1926年に中学卒業とともに上京。有島武郎の小説や山への憧憬から北海道大学進学を目指すが叶わず、1927年の頃は復興局で測量技師の助手のアルバイトに従事して、収入の多くを映画鑑賞に費やし、やがて「人生の転機」(『映画とともに五十年』より)にいたる[注釈 2]。1928年、松竹キネマ蒲田撮影所において所長の城戸四郎の肝煎りで新たに開設される「脚本養成所」(後に「松竹映画脚本研究所」と改称)の研究生に応募、30人の中に合格して第1期生の一人となった。養成課程[注釈 3]を終えた者の中から採用される脚本部員には松崎博臣(当時は本名の松崎省策)、荒牧芳郎、池田忠雄、柳井隆雄、稲津廷一の5人が選ばれて、大黒は漏れるものの脚本部の客員として高原富士郎、馬上義太郎らとともに残されている[12][13][14]。1929年、映画『愛して頂戴』の原作を執筆[16]。1930年に旧制早稲田大学附属早稲田高等学院を中退[17][注釈 4]。
研究所在籍の1929年から文藝春秋社の雑誌『映画時代』に映画批評を書き始めて、1930年に同誌を古川緑波が譲り受けて文藝春秋社から独立した時に誘いを受けて編集者となる[注釈 5]。翌年同誌の経営行き詰まりに伴って離れたのち1932年に映画世界社の『映画之友』編集部に入る。この時から本格的に雑誌編集に携わり、のちに編集長となる[注釈 6]。1950年に『映画之友』編集長を辞任してフリーの映画評論家となる[注釈 7]。1982年に勲四等瑞宝章を受勲[18]。
1992年10月24日に心不全のため横浜市鶴見区東寺尾の自宅で死去[2]。83歳没。
日本映画ペンクラブ会員。文化庁芸術祭、毎日新聞映画コンクール、報知新聞映画賞、藤本真澄製作者賞、キネマ旬報ベスト・テンなどの選考委員を務めた。