天保水滸伝
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講談
初代宝井琴凌作。成立年代は判然としないものの、琴凌が新たな講談の材料を得るべく北関東に下向したのが安政元年。現地で侠客らの実話を採集して江戸に戻ったのが安政3年。この時点で「充分に纏めて材料と致し、スッカリ口馴らしも済んで」いたというものの、それが『天保水滸伝』という形にまとまるに当たっては五代目伊東陵潮の協力があったとされる。琴凌の子で北関東への下向にも同行していた四代目宝井馬琴が昭和3年に『都新聞』で語ったところによれば「上州で仕入れた国定忠次、下総で調べたのが笹川、勢力、飯岡の確執、しかしこの勢力富五郎の方は、まだ材料の足りない処がある、これを不満に思って居ります中に前申し上げた五代目陵潮が花栄時代に、旅から御難で帰って来たのが師走の寒空に単衣一枚、助けてくれと飛び込んで来た、旅は何処を廻ったといふと、これが矢張り下総で此人も同じく勢力や助五郎の事を調べてきた、いろいろ聞き合せて綴って見ると、不足の処もスッカリ判りましたので、今一度此材料を整理致し、面白い好い所を折衷して完全な読物になった、そこで琴凌がこれへ天保水滸伝といふ題を初めて命名したので御座います」[4]。陵潮が琴凌の元に転がり込んだのが慶応3年の師走のこととされるので[5]、『天保水滸伝』の成立はそれ以降ということになる。
浪曲
作者、成立年代とも不明。元々は講談の『天保水滸伝』をフシ付け(浪曲化)したものと考えられ、初代玉川勝太郎が得意とした[6]。しかし、二代目玉川勝太郎の時代になって正岡容が脚色、「〽利根の川風袂にいれて」で始まる外題付けは勝太郎の名調子もあって一世を風靡し、昭和62年刊行の『日本大百科全書』では「近年では講談よりも、正岡容脚色の浪花節が二代玉川勝太郎の名調子によって著名である」と書かれるまでとなった(なお、正岡はこの件について随筆などでもほとんど言及しておらず、わずかに『雲右衛門以後』のあとがきで「玉川勝太郎のお家芸『天保水滸伝』は全段殆んど私の改訂作詞に拠って語られてゐる」[7]と書いている程度。しかし、勝太郎は昭和29年に読売新聞に寄稿したコラムで「このネタは僕のものだが歌詞は彼がすっかり変えて、ご存知のような名文になった」「蔵が建った(それほどではないが…)現在の僕にしてくれたのは正岡容なのだから」[8]と述べている)。