天正大判
From Wikipedia, the free encyclopedia
概要
天正菱大判
天正長大判
墨書きは「拾両後藤(花押)」で年号表示は無く五代後藤徳乗のものであり、上下左右に丸枠桐極印がそれぞれ一箇所、計四箇所打たれている。裏面中央には丸枠桐紋、亀甲桐紋、花押の極印があり、亀甲枠については有る無し、双方が存在する。大判の中でもサイズが特に大きく縦17センチメートル以上のものとされ長大判と呼ばれる。
サイズが大きく見栄えのするものであることから、豊臣秀吉が天正17年5月(1589年)に太閤の金賦りで与えたものは長大判であるとする説もあるが[2]、これは菱大判の鋳造時期であり長大判の初鋳が文禄4年(1595年)であるならば矛盾し疑問である。
裏面中央に澤瀉紋、亀甲桐紋、花押の極印が打たれた澤瀉大判(おもだかおおばん)は秀吉が毛利輝元に後藤家で大判を作製することを許したと推定する説もあるが定かでない[2]。
鋳造高は文禄4年5月から慶長2年2月(1597年)までは、約3万枚と推定され、慶長3年3月(1598年)から5年2月(1600年)までは23,963枚である[1]。
大仏大判


形式は長大判と同じく「拾両後藤(花押)」と墨書され五代後藤徳乗の書であり、右上に「大」と墨書されたものもあり、上下左右にやや大きめの丸枠桐極印がそれぞれ一箇所、計四箇所打たれている。裏面中央には丸枠桐紋、亀甲桐紋、花押の極印がある。形状はやや角ばった楕円形となり長大判より縦のサイズが短い。現存数は天正大判の中で最も多い。
豊臣秀頼が京都の方広寺大仏(京の大仏)および大仏殿再建の費用に当てるために慶長13年10月(1608年)から17年1月(1612年)に掛けて鋳造されたものとされ大仏大判と呼ばれ、これは徳川家康が秀頼の蓄財を消費させる目的で方広寺の再建を指示したとされる[1]。鋳造時期は慶長大判と重なるが、豊臣家によるものであることから天正大判の範疇に入れられる。
これにより大坂城に蓄えられていた分銅金の内、二千枚(約330キログラム)分銅17個、千枚(約165キログラム)分銅11個が消費された[1][4]。
