Wikiwand AI

天賦人権論

From Wikipedia, the free encyclopedia

天賦人権論(てんぷじんけんろん)とは、「すべて人間は生まれながらに自由かつ平等で、幸福を追求する権利をもつ」という近世西欧で確立された自然権(natural rights)思想を、明治時代の日本人が自国に紹介する際に用いた表現[1]。「nature」の訳語としての「自然」という語彙がまだ定着・普及していない時代に、儒教概念である「天」を代わりに用いて、その意味・ニュアンスを表現しようとしている[1]天賦人権説(てんぷじんけんせつ)とも。

自由民権論において「天」の思想を援用して自由民権は「天」から賦与されたものであるとして用いられた言葉[2]

対義語は“自由や権利は国から与えられる”とする国賦人権論[3]あるいは法実証主義

解説

一般にはイギリスのトマス・ホッブズジョン・ロックジョン・スチュアート・ミル、フランスのジャン=ジャック・ルソーら啓蒙思想家や自然法学者によって主張された思想である自然権(natural rights)の概念を日本に移入するさいに作られた造語であり、明治初年に福沢諭吉加藤弘之らが対外的独立を達成するために、封建的身分制を打破し、人民全体を国家の主体的担い手に高めるという意図と結びついて主張されはじめた語[4]と一般に解説される。

しかし、出原政雄[5]によれば維新期から明治初期に西欧から導入され和訳(漢訳)された概念は「人権」「民権」などであり、これらの観念は当初から訳語の背後にある原語の知識を持つ「学者」と、訳語を日常的に通用している意味に解釈する「素人」との間にはズレが生じており、それが社会的混乱を引き起こす原因になっていたという[6]。「民に権があるとはどういうことなのか」[7][8][9]と言った論点でさえ専門家と素人の間には理解に懸隔があったというのである。

また「天賦人権」という、ひとまとまりの訳語についても維新期からこの翻訳語が存在したかのように誤解されているが、実際にはこの造語(天賦人権)がいつ、誰によって最初に用いられたのかは定かではなく、出原は自身の調査に従い初出は明治12年以降の加藤弘之に求めている。この時期は加藤がいわゆる自然法的「人権論」から、スペンサーなどに影響を受け、社会進化論に転向し始めた時期であり、例えば明治12年(1879)の『天賦人権ナキノ説幷(ならびに)善悪ノ別天然ニアラサルノ説』あたりが初出ではないかと適示する。つまり「天賦人権」とは批判者から与えられた名称であって、それに対して民権陣営が反撃をするさい「天賦人権」という語で応戦することで「天賦人権論争」が発生したと論じる[10]

出原の文脈によれば、原語にアクセスすることの可能であった「専門家」にとっては加藤の和訳「天賦人権」は自然法論に基づく人間のnatural right、あるいはthe natural course of things(ホッブスバークの述べる所の)と理解できたであろうが、「素人」にとっては「天」や「人権」などの漢語から「観念」を持って推理するほかなく、 当時の日本人の思考方法や生き方の中に儒教思想が深く根を張っていたため、「天賦人権」論もその影響を受けることとなる[11]。儒教思想における「」は、自然であるとともに天地万物の造物主としての絶対的規範であり、人間を道徳的・政治的に規制するものであった[12]。「天」は人間にとって絶対的なものであり、その儒教の中心思想は「天人相関」「天人合一」であり、「天」に対して人間はあくまで受け身であり、主体性をもっていなかった[11]。天の道を具現しているものは天子であり、天子の支配の政治的・倫理的規範という側面も有していた[11]が、民権論者は儒教思想の「天」を援用しつつも、「自由[13]」「民権」「平等」「幸福」という近代思想を人民の立場から要求し[11]、基本的人権の侵害に対しては抵抗権を行使してよいという思想も持っていた[14]。 当時の民権論者は自由民権は「天」から賦与されたものであって、この貴重な権利を伸暢することこそ人間としての「天性」をまっとうすることであって、これを怠ることは「天意に戻り人間の分に背きて、耻辱焉より甚だしきは莫きなり。人たるものゝ責も亦至大至重」と考え[15]、その具体的方法は国会開設・憲法制定こそを「天理」にかなったものであると考えた[16]。 このような「天」の思想に対して人間至上主義、近代的自我意識、法律万能主義、近代的合理主義からの批判も見られたが、自由民権論者はおおむね儒教思想的な「天」の思想に依拠していたとみられている[14]

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」(『学問のすすめ』福沢諭吉)という名句も、元々はアメリカ独立宣言[17]の語を福沢が『西洋事情』(1866年)で「天」と訳したものであり、これは本来の文脈ではあきらかにキリスト教的唯一神を指していたが、維新期の日本では儒教思想の「天」を利用して「平等」といった近代思想を説明した例である[11]。 つまり、平等や人権の背景には神の前の平等、神の下したもうた権利、という考え方があり、だからこそ福沢もキリスト教に馴染の薄い日本人にも儒教的教養から理解しやすかった「天」という訳語を用いたということが指摘されている[18]

歴史

人間が、自然状態(政府ができる以前の状態、法律が制定される以前の状態)の段階より保持している生命・自由・財産・健康に関する権利(自然権)は不可譲であるとの思想から、とりわけ自由平等が強調され、明治初期に福澤諭吉植木枝盛加藤弘之馬場辰猪らの啓蒙思想家、民権論者によって広く主張された[19]

幕府当局の命を受けオランダ、ライデン大学のフィセリング教授に師事し国際法を研究した西周が『万国公法』に「性理ノ公法ハ其基本ニシテ泰西公法ハ源ヲ斯ニ取ラサルヲ得サルナリ」と記したように、当時、国際法は自然法的なものととらえられ受容された[20]

五箇条の御誓文に「旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基ク可シ」とあるのも、国際法に対する自然法的な受け止め方を示すと言われる[20]。維新政府は、成立早々に五箇条の御誓文を発し、新政府の基本目標を宣言するとともに、平民に苗字を許し、武士の斬捨御免を禁止し、華族、士族、平民間の婚姻を許可し、賤民身分を廃止し、人身売買を禁止するなど封建的身分制を解体し、人権領域の大きな改革を行った[21]。この時期は旧体制の変革に熱心な維新政府と天賦人権説、啓蒙的自由論は蜜月的な関係にあったと言える[21]。むしろ維新回天の原動力であった「天皇独裁」と神道による国家運営を主唱する玉松真弘福羽美静長谷川深美矢野玄道らは明治初期には維新官僚らから牽制あるいは無視される状態であった。

ヨーロッパから帰国した福沢諭吉は『西洋事情』、『学問のすゝめ』『文明論之概略』等を公刊し一身の自由と独立を説いてやむなかった[22]。スマイルス著の『セルフ・ヘルプ』も中村正直によって『西国立志編』として公刊され、「明治の聖書」とまで呼ばれて『西洋事情』とともに広く読まれた[22]

天皇家庭教師もつとめ、江藤新平ととも洋学中心の体制を整えた加藤弘之は、1875年には『國体新論』を著し「君主も人、人民も人なり」と説き、国学国体論を批判した[23][24]。これに対して元老院議官海江田信義が『国体新論排斥の建言書』(1881年、明治14年)を三条実美に提出し加藤を「刺殺しかねない勢いで」恫喝している(立花隆によれば、これが理由で政府高官も次々に批判すると加藤は折れ、天賦人権説を妄想として否定するに至った[25]という)。

[26]一方で加藤が海江田から脅迫まがいの圧力を受けたことは史実と考えられているものの、学理的には明治8年(1875)の『國体新論』で明記していたように、自由権は天賦と表現している箇所[27]がありながら「人民は君主政府の保護を受けて、その安全を得るがゆえに、あえてその保護を求むるの権利を有す」[28]とあることから明らかなように、加藤は国学者たちの「天下国土をもって一君の私有とする」国体論を野鄙陋劣[29]と批判するばかりでなく、自由民権運動の初期からの彼らの称える、自然法が与える「平等説」に対して否定的であった。

もともと自由民権論者として限界のあった加藤は、明治10年以降、社会的進化論への傾斜を始めており、明治15年(1882)に至り『人権新説』を上梓し、冒頭でドイツの社会進化論の書籍を多数列挙のうえ、その権威において天賦人権説には歴史的に見て根拠がない旨を開陳している。後半では、社会進化のありさまが述べられ、強者たちが権力をめぐる競争を繰り広げ、その勝者が言わば自らの地位の安全を図るために、弱者にもある程度の自由を保障するのだが、それこそが自由権の起源であり、決して天によって賦与されたがために全ての人間に自由権があるわけではないとした[30]

この加藤の思想的「転向」宣言は植木枝盛馬場辰猪矢野文雄黒岩大外山正一らから批判を受けるものの、その後の自由民権運動の衰退とともに、天賦人権の思想も急激に消滅してゆくこととなった[31]

征韓論に破れた板垣退助は愛国公党を結成。その本誓には「通義権理ナル者ハ天ノ均ク以テ人民ニ賜フ所ノ者ニシテ、人力ノ以テ移奪スルヲ得サル者ナリ」、「我輩ノ斯ノ政府ヲ視ルコト斯ノ人民ノ為メ設クル所ノ政府ト看做スヨリ他ナカルヘシ」と明らかに天賦人権説を述べている[32]。立志社設立趣意書、民選議院設立建白書にも同趣の言明がみられる[32]

1880年、明治政府は自由民権運動の国民のエネルギーに押される形で明治23年(1890年)の国会開設を約束する国会開設聖詔を出す中、自由党の結成をみるが、政府による締め付けや過激な事件を続出させたこともあって1884年に自由党は解散し、自由民権運動が幕を閉じるとともに天賦人権説も歴史の表舞台から姿を消した[33]。その一方で板垣退助大隈重信といった自由民権運動の巨魁は、再び維新の功臣として政権に回収された。

「天」から、西欧キリスト教的唯一神を想起した場合、明治初期の官界・政界の上層部には、数年前まで厳しく弾圧してきた宗教により日本的な「天(皇室)」を廃し、共和政体の成立を主唱するとも取れる学理は、一部の者にとっては理解よりも先に感情的憎悪の対象であった点も重要である(高札制度の廃止に伴い「切支丹邪宗門」の禁が内密に廃止されたのが明治6年2月24日-太政官布告第68号。)

江戸時代の上級階層を指導する原理は儒教と武士道であり、維新によりこれらの思想が弱体化する一方で国家を道徳的に指導する原理としての神道(国家神道)の確立には時間的隔離が存在しており、明治のキリスト者は儒教精神を発条にしてキリスト教を受容し両者の癒着を自覚することによって自らの存在の社会的意義を確信するのが常であって、内村鑑三がその典型であった[34]。維新直後の藩閥政府にとっては当時の西欧におけるキリスト教の国教的地位に対する対応物として、日本の神道に特別な地位の政治的保障を行い、欧化政策に利用しようと主導しており、一方でこの神道の国教化政策は現実には民衆から幅広く支持されるものではなく、むしろ伝統から乖離したものでもあった[35]

加藤弘之は慶應4年(明治元年、1868)の「立憲政体略」の中で信法自在の権利を私権の重要なものとして挙げて「教法の為に国乱の起こる事が絶え、欧州の開花が大いに進歩した所以である」と強調しているが本人は宗教嫌いで無神論の立場を公言しており[36]、明治40年には「吾国体と基督教」でキリスト教攻撃を展開し、世界宗教であるキリスト教や仏教は迷妄であるばかりか国を道徳的に制約するものであって採用し得ないと論じ、明治44年には「族父統治という特別の国体は何処までも保って行かなければ我が国は立たない」と主張している[37]

現代では「天賦人権」という漢語に含まれた余計な観念を排除する意図もあり、これの原語(natural rights)に相当する和語としては「基本的人権」が充てられており、日本国憲法では自然権的な権利として人権を保障した第11条、第13条、第97条に現代人権宣言のもつ要素をすべて含んだ人権規定を設けている[38]。しかし日本国憲法の人権の考え方は1776年のアメリカ独立宣言を淵源とするものであり[38]、アメリカ独立宣言はキリスト教神学の影響を強く受けた、造物主・神より与えられた天賦人権論によるものである[39]

自由民主党の日本国憲法改正草案では、人権規定について「我が国の歴史、文化、伝統を踏まえたものであることも必要」であり「現行憲法の規定の中には、西欧の天賦人権説に基づいて規定されていると思われるものが散見」され、こうした規定「例えば憲法11条の『基本的人権は、現在及び将来の国民に与へられる』」という規定は「(第十一条 国民は、全ての基本的人権を享有する。この憲法が国民に保障する)基本的人権は、侵すことのできない永久の権利である」に改めるとしている[40]

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

Related Articles

Timelines

Top Qs

Fact Checks