天野興定
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生涯
文明7年(1475年)、天野興次の子として誕生。父同様、近隣で勢力を誇っていた大内義興の偏諱を受けて興定と名乗る[注釈 2]。
天野氏は安芸に土着する国人領主で、毛利氏や宍戸氏などとは元々同格の立場である。代々周防国の大内氏の影響下にあったが、出雲国の尼子経久の勢力が安芸に浸透してくるようになると、離反し尼子氏へ属したが、勢力を盛り返した大内義興の攻撃を受け、滅亡寸前にまで追い込まれる。しかし、毛利元就の取り成しもあって大永5年(1525年)に降伏が許され、以後は親大内・親毛利の立場を貫いた。
天文9年(1540年)、吉田郡山城の戦いでは、毛利氏救援の援軍を率いて出陣。大軍を率いて安芸に乗り込んだ尼子晴久の撃退に成功する。翌、天文10年(1541年)には、毛利氏と共に尼子方の佐東銀山城の武田信実を攻略するも、同年に病死した。家督は子・隆綱が継いだ。