天龍吊橋
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沿革
- 昭和2年(1927年)、台湾総督府は関山越横断道路のうち、新武から霧鹿にいたる道路を完成させた。さらに昭和4年(1929年)、霧鹿から利稲いたる道路を作る際、霧鹿に吊橋がつくられた。これを俗に「ブルブル鐵線橋」と呼んだ。[1]
- 第二次世界大戦終了後、天龍吊橋は日本人の帰国[3]により誰も通行しなくなり、維持もされなくなった。民国60年代(1970年代)、台20線(南横公路)が作られた後,霧鹿峽谷の南側道路沿いに退役軍人が済む小集落が形成された。このとき、既に廃棄されていた天龍吊橋が注目された。[1]
- 民國82年(1993年),天龍吊橋主、支索部分斷裂,安全之虞,北側の台湾総督府が切り開いた横断道路が既に後輩していることから、台東県海端郷公所は同年3月に改修を開始した。ケーブルや床板を交換し、橋げたの強化をおこなった。あわせて橋の来た側に歩道を作った。同年五月完成。[1]
諸元
逸話
日本統治時代の逸話として次のようなものがある。
一名の警察官が着任し、新婚の妻を連れて天龍吊橋をわたるとき、妻がゆれる橋とがけ下の急な流れを見て泣き出してしまい、渡れなくなってしまった。このためこの警官はやむなく妻と離婚し、妻は日本へ帰ってしまった。この後、天龍吊橋は「離婚橋」とも呼ばれるようになった。[1]