太刀川恒夫
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略歴
1955年、山梨県立日川高等学校を卒業後、児玉誉士夫の著作を読んで「共鳴し」、児玉のような人間になろうと考え上京、1960年に児玉宅に書生として住み込んだ[5]。その後、児玉から政治の勉強をするよう指示され、河野一郎代議士を通じて中曽根康弘を紹介され、中曽根の書生となり、中央大学法学部政治学科二部に入学[5]。昼は中曽根事務所で働き、夜は大学に通った[1]。
1966年大学卒業後、児玉の秘書となり、児玉事務所で働き出す[5]。1968年には当時児玉が事実上のオーナーだった東京スポーツに入社[6]。
1976年にはロッキード事件に児玉が関与した疑いから、秘書で「腹心」とされた太刀川も逮捕・勾留されるが、88日間にもわたる勾留の間一切口を割らなかった[1]。結局同事件で太刀川は外為法違反並びに強要罪で起訴されるが、1981年11月に東京地方裁判所は外為法違反のみを認め、懲役4月・執行猶予2年の有罪判決を下し、太刀川は控訴せずそのまま確定した[7]。
1976年3月、児玉宅に俳優が軽飛行機で突入した際(児玉誉士夫邸軽飛行機突入事件)には、太刀川が児玉を背負って逃げるなど、2人は固い絆で結ばれ[8]、児玉が経営に関与する複数の企業で役員を務めた。
1984年の児玉の死去後は、東京スポーツ新聞社の経営に事実上専念。1990年に同社の社長に就任、2007年に同社会長となり、2023年9月に同社名誉会長に退く[3]。勇み足の芸能記事に激しい抗議が来た際は、編集部門に代わって自ら話し合いに乗り出すこともあったという[1]。この間には、日本レスリング協会副会長なども務めた[3]。