太平記読み
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太平記読み(たいへいきよみ)は、中世末期から近世にかけて、軍記物語『太平記』を読み、その本文や登場人物、合戦、政治、兵法などについて解説・評論した講釈、またはそれを行った者である。太平記読、太平記講釈ともいい、軍書読みとも称された[1][2]。太平記読みとして論じられてきた活動には、武士を対象として『太平記評判秘伝理尽鈔』などに基づく政治・軍事の講釈を行うものと、寺社の境内や路傍などで庶民を相手に身振りを交えて語るものとがあり、両者の境界は必ずしも明瞭ではなかったとされる[3]。

中世における僧侶や物読み法師による軍記物語の朗読・講説を前史とし、戦国時代から近世初期には、武家を対象として『太平記』の事件や人物に政治・軍事・道徳上の論評を加える講釈が発達した。江戸時代前期には寺社の境内、路傍、盛り場などで聴衆を集める町辻講釈として広まり、やがて題材を『太平記』以外の軍記・歴史物にも拡大して、後世の講談を形成した主要な系譜の一つとなった[4][5]。
名称と範囲
「太平記読み」または「太平記読」は、『太平記』を講釈する行為と、その講釈を行う者の双方を指す。「太平記講釈」は、おもにその口演を指して用いられた[1][2]。
文学史研究では、武士階級を相手として『理尽鈔』を講釈する活動と、庶民を相手に仕方話を交えて『太平記』を語る活動の双方が「太平記読」として論じられてきた。大橋正叔は先行研究を整理し、両者の境界は必ずしも明瞭ではないとしながら、前者は慶長・元和期ごろから、後者は貞享・元禄期を大きくさかのぼらないころから確認できるとしている[3]。
これに対し、歴史学者の若尾政希は、史料用語としての太平記読みを、おもに民衆を相手に『太平記』を講釈した芸能者を指すものとして扱い、これと区別して、『理尽鈔』に基づく政治・軍事の講釈とその講釈者を、括弧付きの「太平記読み」と呼んだ。若尾の研究上の用法では、路傍などで活動した職業的芸能者だけでなく、大名や武士を対象とする講釈、その内容を取り込んだ派生書、および講釈や出版を通じた政治思想の伝播が研究対象に含まれる[6]。このため、研究文献における「太平記読み」は、狭義には近世の職業的な芸能者を指す一方、広義には『理尽鈔』を媒介とする政治・軍事講釈まで含む場合がある。
中世における前史
講釈とは、もともと経典や典籍の文意・語義を解釈し、説き聞かせる行為を意味した。中世には仏教の経典講釈や唱導、法門講談のなかに軍記物語が取り込まれ、『平家物語』『源平盛衰記』『太平記』などが、琵琶法師、物語僧、物読み法師らによって朗読・口演された。太平記読みは、こうした僧侶による説教、講説、軍記物語の口演を前史として成立したと考えられている[7][8]。
15世紀には、宮廷や公家社会における朗読、僧侶による講説、物読み法師による口演など、複数の形で『太平記』が享受されていた。『看聞御記』の永享8年(1436年)5月6日条には、『太平記』巻第一が読まれ、女中がこれを聴聞したことが記されている。また、『蔭凉軒日録』の文正元年(1466年)閏2月6日条には、江見河原入道が『太平記』を読んだことに関係する記録があり、『後法興院記』の同年5月26日条には、法門談義に続いて禅僧が『太平記』を読んだことが記されている[9]。
『太平記』の古写本には、節を付けて朗唱したことをうかがわせる符号が残るものもある。こうした記録から、中世には娯楽としての朗読・口演だけでなく、書写・校合や歴史的教養を目的とする読書など、多様な享受形態が存在したと考えられている[9]。ただし、これらの朗読者や僧侶を、寺社境内や路傍で金品を受け取って口演した近世の職業的太平記読みと、そのまま同一の芸能者とみなすことはできない。
「太平記読み」という呼称の早い用例としては、天正18年から19年(1590年から1591年)ごろのものとされる厳島野坂文書の山城守就長書状に、「大平記よみ一人めされ出し候」と記された例がある[1]。この記述は、16世紀末までに『太平記』を読むことを専門または役割とする者が、その行為によって呼ばれていたことを示している。
戦国時代には、『太平記』は大名や上層武士が過去の戦乱から政治・軍事上の教訓を学ぶための教材としても講釈された。戦国大名に仕えた御伽衆には、僧形の語り手や書物の講釈を行う者が含まれ、豊臣秀吉の御伽衆であった大村由己は、軍記などを読む「物読み」の代表的人物として知られた[10][7]。こうした武家社会における軍記の講説は、近世初期に『太平記』の本文へ政治・軍事上の批評を加える講釈が発達する前提となった。
近世初期の講釈と『太平記評判秘伝理尽鈔』
近世初期になると、『太平記』の本文を読むだけでなく、作中の事件や人物について政治・軍事・道徳上の批評を加える講釈が発達した。初期には主として武士が聴衆となり、講釈を通じて為政者の倫理、合戦の指揮、兵法、処世などに関する知識を学んだ[11]。
『理尽鈔』の成立と内容
こうした講釈の台本として大きな役割を果たしたのが、『太平記評判秘伝理尽鈔』(『太平記秘伝理尽鈔』『太平記之秘伝理書』などとも。以下、『理尽鈔』)である。現存本の編著者は法華宗(日蓮宗)の僧である大運院陽翁とされ、慶長・元和年間(1596年 - 1624年)ごろに現在の形が成立したとみられている。全40巻からなり、『太平記』の各段に、本文だけでは明らかでない事件の背景や真相、異説、関連する逸話を説明する「伝」と、人物の言動、戦術、政道、謀略、倫理などを論評する「評」を付している[6][11]。

国立公文書館所蔵の『太平記之秘伝理書』の奥書には、今川心性が文明2年(1470年)に名和刑部左衛門へ伝えた内容を、大運院陽翁が元和8年(1622年)に唐津藩主寺沢広高へ伝授したと記されている[11]。このように『理尽鈔』の諸本は、中世以来の秘伝を継承する書物として伝授系譜を掲げているが、現存する内容の成立は近世初期と考えられている[6]。
『理尽鈔』は、単なる『太平記』本文の注釈書ではなかった。合戦の成否や武将の判断を論じる軍事論、領主が民を治める方法を説く政治論、忠義・仁政・謀略を評価する人物論・倫理論を、物語の展開に即して提示した。そのため、軍書の講釈書であると同時に、為政者や武士が政道と兵法を学ぶための書物として受容された[6]。
本来、『理尽鈔』は長期間にわたる対面での伝授を受けたのちに書写を許される秘伝書であったとみられる。しかし、しだいに正式な伝授を経ない写本も作られるようになり、17世紀半ばには、そのような系統の写本の一つが版本として刊行された[12]。版本自体には刊記がないが、付載された『恩地左近太郎聞書』の諸本から、初刊は正保2年(1645年)よりわずかにさかのぼるころと推定されている[6]。
写本と版本によって『理尽鈔』が広まると、その内容は正式な伝授を受けた講釈者や上層武士に限らず、より広い読者層に受容されるようになった[12]。寛文8年(1668年)に刊行された原友軒の『太平記綱目』も、『理尽鈔』系の解釈に基づいて『太平記』の事件や人物を解説した書物であった[4]。
武家社会における講釈
武家を対象とする太平記講釈は、軍記の朗読にとどまらず、政治や軍事について議論し、過去の事件から現実の統治や戦略に役立つ教訓を引き出す営みであった。近世初期には、特定の大名の屋敷や家臣団の集会だけでなく、教養人が集まる場でも『太平記』が講じられた。
松永貞徳の『戴恩記』には、慶長8、9年(1603年、1604年)ごろ、林道春が『論語』の新注、貞徳が『徒然草』、遠藤宗務が『太平記』を、多数の者の前で読んだことが記されている。宗務の口演は、本文の朗読だけでなく語句や内容の解説を伴っていたと考えられ、江戸時代初期に多数の聴衆を前にして行われた太平記講釈の早い確実な記録とされる。ただし、その聴衆は一般の庶民というより、学問や文芸に関心をもつ教養人を中心としていたとみられる[13]。
武家の内部でも、『理尽鈔』の講釈は軍書講釈として行われた。新井白石は『折たく柴の記』に、万治3、4年(1660年、1661年)ごろ、上総国久留里藩の土屋家に仕えた父らが夜ごとに集まり、富田小右衛門覚信という人物に「太平記の評判」、すなわち『理尽鈔』の内容を講じさせたことを記している。この例からは、家臣が集団で講釈を聴き、政治・軍事の知識を共有する武家社会における受容の形態がうかがえる[13]。
太平記読みの始祖としては、慶長年間(1596年 - 1615年)ごろに徳川家康や諸大名の前で『太平記』『源平盛衰記』などを講じたと伝えられる赤松法印の名があげられる[8][7]。後世には講談師の祖とも称されたが、その伝記や活動の実態は明らかでなく、太平記読みや講談が赤松法印から始まったとする説明は、芸能者の系譜をさかのぼって構成された伝承として扱う必要がある[4][7]。
職業的太平記読みの展開
都市における口演
武家を対象とする軍書講釈と並行して、近世前期には、寺社の境内、路傍、盛り場などで不特定の聴衆を集める太平記読みが現れた。こうした口演は、屋外で軍談などを聞かせて聴衆から金品を受け取る町辻講釈の一種であり、京・大坂・江戸を中心に広まった[14][10]。

大坂では天和元年(1681年)、天満天神の境内で『太平記』が読まれた記録がある。貞享4年(1687年)には、京都の講釈師原栄宅が、近松門左衛門による『徒然草』の講釈に加わったとされる。これらの記録からは、17世紀後半までに、寺社境内や都市の盛り場で典籍や軍記を講じる専門的な演者が活動していたことがうかがえる[14]。
元禄3年(1690年)刊行の『人倫訓蒙図彙』は、太平記読みを「近世よりはじまれり」とし、むしろを敷いて場所を定め、『太平記』を読んで物品を受け取る者の姿を描いている[1][15]。その説明には、かつては畳の上で暮らしていた者が辻で『太平記』を読むようになったという趣旨が記されており、太平記読みが、武士としての生活基盤を失った者の生業となる場合があったことを示している[15]。
近世文学にも、困窮した元武士が太平記読みとなる姿がみえる。江島其磧の『浮世親仁形気』には、若いころに西国で武士奉公をしていた人物が、生活に困って京都・北野の縁日に出て『太平記』を読み、楊枝や耳掻きも売って生計を立てる様子が描かれている[15]。このような記述から、初期の庶民向け太平記読みを、零落した武士による勧進的な口演に求める見解がある[16]。ただし、すべての太平記読みが元武士であったことを示すものではなく、都市に定着して専門的な興行を行う講釈師も現れた。
路傍や寺社境内で金品を受け取った太平記読みは、江戸時代の大道芸の一つにも数えられる[17]。一方、よしず張りの小屋など、一定の場所に聴衆を集めて口演する形態も生まれ、のちの常設的な講釈場へとつながった[14]。
太平記読みの演者
職業的な太平記読みの先駆者として、明暦年間(1655年 - 1658年)ごろの浄瑠璃作者、岡清兵衛があげられる。岡清兵衛は古浄瑠璃の作者として活動したことが確認される一方、後世の講談史では、強い記憶力をもち、『太平記』を読んで喝采を博した人物として伝えられ、「江戸舌耕師の祖」とも称された[18]。ただし、太平記読みとしての活動の詳細は明らかでなく、その位置づけには後世の講談師系譜における伝承が含まれる。
元禄年間(1688年 - 1704年)ごろには、江戸・京都・大坂で複数の太平記読みが知られるようになった。江戸では、名和清左衛門(赤松清左衛門とも)が京都から下り、浅草御門付近で聴衆を集めて『太平記』を講じた[5][18][14]。享保18年(1733年)刊行の『近代世事談』は、清左衛門を江戸の太平記読みの始まりとし、『理尽鈔』を用いて『太平記』を講釈したと記している[19]。
清左衛門の講釈は繁盛し、その活動場所は後世に「太平記場」と呼ばれた[5][18]。清左衛門については名和姓と赤松姓の双方が伝わっており、辞典・芸能史資料でも表記が分かれている。
同じころ、赤松青龍軒は原昌元と名乗り、江戸の堺町によしず張りの小屋を設けて軍談を講じたとされる。京都では原栄宅、大坂では赤松梅竜、甫水、道久らが知られた[14][18]。井原西鶴の作品にも、天満天神で活動した甫水や道久ら太平記読みの名がみえ、太平記読みが元禄期の都市生活に定着した芸能であったことがうかがえる[16]。
赤松梅竜は、近松門左衛門の浄瑠璃『大経師昔暦』(正徳5年〈1715年〉初演)にも、京都岡崎で太平記講釈を行う人物として登場する[5]。実在の講釈師をモデルとした可能性が指摘されており、作品中の口演の描写は、当時の太平記読みの芸態や興行形態を考える資料となっている。
口演の内容と形態
太平記読みの口演は、『太平記』の本文を朗読するだけでなく、語句や時代背景を説明し、作中の人物、合戦、政治、兵法、道徳などについて批評を加えることを特徴とした。まず本文を読み、その場面が生じた事情や人物関係を説明したうえで、本文に記されていない伝承や逸話を交え、武将の判断や戦術の当否、為政者のあり方などを論じた[5]。
元禄3年の『人倫訓蒙図彙』に描かれた太平記読みは、路傍にむしろを敷いて座り、開いた書物を前にして口演している[1]。聴衆から一定の料金を取る場合のほか、金銭や物品を任意に受け取る勧進的な形態もあったとみられる。のちには、よしず張りの小屋や一定の場所に聴衆を入れ、木戸銭を取る興行も行われるようになった[14]。
『大経師昔暦』に登場する赤松梅竜は、「太平記講釈」と記した細い釣り行灯を掲げ、身振りを交えて「楠湊川合戦」を読み、木戸銭五文を取る人物として描かれている[5]。この描写は、18世紀初頭の太平記読みが、看板を掲げた一定の場所で、有料の興行として行われていたことを示す文学上の例である。
太平記読みや、その後継である講釈・講談では、書物の文章を逐語的に朗読する場合に限らず、物語を口演すること自体を「読む」と表現した。題材や口演形式が変化した後も、講談師が演目を口演することは「一席読む」「軍談を読む」などと表現された[18]。
社会と文芸への影響
太平記読みの広まりによって、『太平記』は大名や上層武士が政治・軍事上の教訓を学ぶための軍書にとどまらず、都市の庶民にも親しまれる物語となった。口演では、本文に加えて時代背景や人物関係が説明されたため、聴衆は文字による読書とは異なる形で、南北朝時代の事件、武将、合戦などに関する知識を得ることができた[10]。
こうして共有された知識には、史実だけでなく、『太平記』の叙述、『理尽鈔』による解釈、講釈師が加えた逸話や評論も含まれていた。太平記読みは、歴史的事件を伝える場であると同時に、忠義、武勇、知略、仁政などをめぐる人物評価や政治的・道徳的な教訓を聴衆へ伝える場でもあった。
近世には、『太平記』の人物や事件を題材または時代設定として利用した浄瑠璃、歌舞伎、読み物が多数作られた。これらは太平記読みだけから生じたものではないが、町辻講釈を含む『太平記』の広範な享受は、作品の人物や物語を庶民が理解するための文化的基盤となった[20]。
その代表的な例が、赤穂事件を題材とする人形浄瑠璃・歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』である。同作は、赤穂事件の人物や出来事を、そのまま当時の政治事件として描くのではなく、『太平記』に登場する高師直、塩冶高貞などの人物と南北朝時代の世界に置き換えて構成した[21]。元禄期以後の辻講釈によって『太平記』が庶民にもよく知られていたことは、この設定を観客が理解する背景の一つとなった[21]。
政治思想としての受容
若尾政希は、『理尽鈔』に基づく政治・軍事講釈を、史料上の芸能者としての太平記読みと区別して、括弧付きの「太平記読み」と呼び、その思想が近世社会の政治観の形成に及ぼした影響を論じた。若尾によれば、「太平記読み」は17世紀半ばに形成され、社会的な通念となった仁政論の担い手であり、その講釈では楠木正成が智謀に優れた武将であると同時に、仁政を行う理想的な為政者として語られた。武将から領国の統治者への転換を求められた近世初期の領主層にとって、この正成像は明君の模範となったという[12]。
若尾が整理した「太平記読み」の政治理念は、領主は「天道」によって統治を委ねられており、民を苦しめる悪政を行えば天道に見放され、領国や政権を失うため、撫民と仁政を行わなければならないというものであった。この考え方は、天道によって将軍が天下を預かり、将軍から大名が一国の統治を委ねられるという大政委任論ないし天道委任論とも結びつき、支配を正当化すると同時に、為政者に善政を求める論理となった[12]。
『理尽鈔』は当初、対面による伝授を受けた者に書写が許される秘伝書であったが、写本と版本の流通によって、正式な伝授を受けた講釈者や領主層以外にも広まった。さらに、その内容を取り込んだ派生書が出版され、書物を読める者が周囲の人々に読み聞かせることによって、「太平記読み」の政治論は中・下層の人々にも伝えられたと考えられている。若尾は、こうした講釈・読書・読み聞かせを通じて、指導者像や政治のあり方についての社会的な共通認識が形成されたと論じた[12]。
一方、井関大介は、『理尽鈔』の思想を、儒教・仏教・神道を支配の手段として利用する軍学・謀略の思想に単純化することはできないと指摘している。井関によれば、『理尽鈔』は三教の道徳的価値を否定したのではなく、それらの倫理規範を、人々が相互に助け合い、社会に「自他安楽」をもたらすものとして捉え直した。中国の儒教だけでなく、仏教・神道にも共通する「道」の「理」を見いだし、その理に基づく法を立てて仁政を行うことを為政者に求めたのである[22][23]。
この解釈では、為政者は自分一人が倫理規範を守るだけでは足りず、実際に人々を動かし、天下太平と自他安楽につながる効果を上げなければ、「道」にかなうとはみなされない。『理尽鈔』の倫理は、権力闘争における勝利だけを求めるものではなく、政策や行為が社会にもたらす結果を重視し、為政者自身をも拘束する規範であったと井関は論じている[24]。
『理尽鈔』の思想は、その後の類縁書・派生書に一様に継承されたわけではない。今井正之助の研究によれば、派生書の受容には、武威の肯定を抑えて道徳的な教訓を強調する方向と、道徳的傾向から離れて武威・謀略の論理を純化する方向があった。井関は、この分岐が、『理尽鈔』そのものに武威と仁徳、道と謀略をめぐる多義性が含まれていたことを示すと指摘している[25]。
講釈・講談への展開
元禄年間の末ごろになると、庶民を対象とした太平記読みは、『太平記』だけを専門に読む口演から、さまざまな軍記・戦記を扱う軍談講釈へ取り込まれていった。『近代世事談』では、清左衛門による『太平記』講釈とともに、赤松青龍軒が軍談を講じたことが記されており、当時すでに「太平記読み」が町講釈師を広く代表する呼称として用いられる場合があった[19]。
聴衆の関心も、『太平記』から『太閤記』『三河後風土記』『源平盛衰記』『曽我物語』など、ほかの軍記・歴史物へ広がった[5][18]。そのため、演者を指す呼称も、特定の演目に由来する「太平記読み」から、書物や物語を解説する者を意味する「講釈師」へと移っていった。大橋は、専門的な太平記読みが元禄末ごろには軍談講釈へ吸収され、勧進的な太平記読みの姿もしだいに過去のものとなったと論じている[19]。
もっとも、武家を対象とする軍書講釈と、庶民を対象とする町辻講釈がただちに一つの芸能へ統一されたわけではない。享保年間(1716年 - 1736年)ごろにも、神田伯龍子が大名・旗本の屋敷で軍記を講じる一方、霊全は浅草寺境内によしず張りの小屋を設けて辻講釈を行ったと伝えられている。聴衆、場所、興行方法を異にする複数の講釈が並行して行われながら、しだいに町の話芸として整えられていった[14]。
講釈の題材は、軍談から、仇討物、御家騒動、政談、裁判・犯罪事件を扱う実録、世相や人情を描く世話物などへ拡大した。江戸時代中期から後期にかけて、歴史から政治・軍事上の教訓を学ぶという性格に加え、演者の話芸そのものを楽しむ娯楽性が強まった[26]。
口演の場所も、路傍や寺社境内から、よしず張りなどの小屋掛けの講釈場、さらに常設的な講釈場へと移った。こうした講釈場では、複数の演者が出演し、演目を分担する興行形態が整えられ、講釈は都市の寄席芸能の一つとして定着していった[7][18]。
明治時代以後は、従来の「講釈」にかわって「講談」という呼称が一般化した[18]。