松永貞徳
日本の俳諧師
From Wikipedia, the free encyclopedia
経歴
出身は京都。連歌師・里村紹巴から連歌を、九条稙通や細川幽斎から和歌、歌学を学ぶほかに[1]、五十数人に師事したという[2]。20歳頃に豊臣秀吉の右筆となり、木下勝俊(長嘯子)を友とする[1]。慶長2年(1597年)に花咲翁の称を朝廷から賜り、あわせて俳諧宗匠の免許を許され、「花の本」の号を賜る[2]。 元和元年(1615年)私塾を開いて俳諧の指導に当たった。家集に『逍遊集』、著作に『新増犬筑波集』『俳諧御傘』などがある。
俳諧は連歌・和歌への入門段階にあると考え、俗語・漢語などの俳言(はいごん)を用いるべきと主張した。貞徳の俳風は言語遊戯の域を脱しないが、貞門派俳諧の祖として一大流派をなし、多くの逸材を輩出した。墓所は、京都市南区の上鳥羽実相寺。
出自
父の永種は松永久秀の子(甥とも)であったという説がある[3]が、古くから疑義が呈されている[注釈 1]。
貞徳が子の尺五に作成させた「家譜」[注釈 2](『尺五堂先生全集』所収[4])によると、永種は摂津国の武家で一族が高槻城主を務めた入江氏の出(入江政重の子[4])であり、永種の祖母・妙精を久秀の伯祖母(大おば)とする[4][5]。永種が松永姓を名乗った事情については、父親から武家を継がないのならば入江の姓でなく祖母の実家の松永姓を名乗るよう遺言されたためという[4]。
また、貞徳の父・永種の母は冷泉為孝の娘・妙忍、貞徳の母は藤原惺窩の姉(冷泉為純の娘)であることから、貞徳は下冷泉家と深い関係にあったことがわかる。
