太田暁
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京都西高等学校入学後に移った[3]帝京第五高等学校への在学中までは投手で、中国遠征のメンバーにも選ばれていた。甲子園球場での全国大会とは無縁であったが、中学生時代に経験したアメリカ遠征試合で2本塁打を放つなどの実績から、打者として注目されていた。
1988年のNPBドラフト会議で、近鉄バファローズからの6位指名を受けたことを機に入団[1]。投手として指名されたが、打者としての選球眼と野球センスを高く評価されたことから、入団後に内野手へ転向した。しかし、プロ野球選手としては細身だったことが災いして、当時厚かった一軍の選手層に割って入るまでには至らなかった[4]。一軍公式戦には通算3試合の出場で、1本の安打も放てないまま、1996年限りで現役を引退。ただし、翌1997年以降も、近鉄のチームスタッフとして二軍の用具係などを務めた。しかし近鉄球団が2004年限りでオリックス・ブルーウェーブに統合されたことから、2005年以降は、統合によって誕生したオリックス・バファローズに在籍。高校時代まで投手だった経験を買われて、打撃投手へ転身した。打撃投手としては「球の回転がかなり美しいうえに、投げた球がすべて真ん中のコースへ集まる」との評価を受けるほど選手からの信頼が厚く、現在は、一軍の打撃練習で外国人選手や主軸選手を相手に投げている[5][1]。
家族
息子の椋は、中学生時代に羽曳野ボーイズへ所属した後に、天理高等学校へ進学。暁の近鉄時代のチームメイトだった中村良二監督[4]の下で「高校球界屈指の大型遊撃手」として頭角を現すと、2018年のNPBドラフト会議1巡目での指名[6]を経て、2019年から暁と同じくオリックス・バファローズの一員になった。暁も、椋がバファローズから指名された直後[7]や、入団が決まった後の記者会見[8]に同席。以降も、春季キャンプなどの折に、2人揃って取材に応じている[9]。
ちなみに、椋が羽曳野ボーイズに所属していた時期のNPBオフシーズンには、椋の練習相手を務めていた[9]。椋はバファローズへの入団後も、1年目から一軍へ昇格したため、昇格中の試合前練習でも、椋を相手に投げている[10]。もっとも、椋は暁の現役引退後の2001年に出生したため[11]、暁の現役時代については当時の写真を通じてしか知らないという[7]。
詳細情報
年度別打撃成績
| 年 度 | 球 団 | 試 合 | 打 席 | 打 数 | 得 点 | 安 打 | 二 塁 打 | 三 塁 打 | 本 塁 打 | 塁 打 | 打 点 | 盗 塁 | 盗 塁 死 | 犠 打 | 犠 飛 | 四 球 | 敬 遠 | 死 球 | 三 振 | 併 殺 打 | 打 率 | 出 塁 率 | 長 打 率 | O P S |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1991 | 近鉄 | 2 | 1 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | 1.000 | ---- | 1.000 |
| 1996 | 1 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 | |
| 通算:2年 | 3 | 2 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | .000 | .500 | .000 | .500 | |
記録
- 初出場:1991年4月7日、対日本ハムファイターズ2回戦(藤井寺球場)、7回表に二塁手として出場
- 初打席:1991年5月4日、対西武ライオンズ4回戦(西武ライオンズ球場)、9回表に中根仁の代打として出場、潮崎哲也から四球
背番号
- 51 (1989年 - 1996年)
- 117 (1997年 - 2004年)
- 107 (2005年 - )