泰昌の血統は秀郷流であり、源姓江戸太田氏とは異なる[1]。
天文3年(1534年)2月に鶴岡八幡宮の廻廊奉行の一人として見えるのが初見。この時は、玉縄衆の1人であったとみられるが、その後、河越衆、松山衆と配置換えされている。同10年(1541年)1月に武蔵河越城で戦功を挙げている。同23年(1554年)の下総国古河城攻略でも戦功を挙げている[1]。
永禄2年(1559年)の「役帳」では、松山衆の寄親の1人として、相模国千代を本領に東郡須崎、梶原分、武蔵国吉見郡大串之内乙卯検見、比企郡戸森、上野国高嶋江の合わせて529貫120文を知行している。永禄6年(1563年)8月4日死去[1]。