奇想的小品
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曲の平静さはチャイコフスキーが友人のニコライ・コンドラーチェフ(1832年-1887年)に悩まされた結果である。コンドラーチェフは梅毒末期の苦悶の中にいた。彼の家族はやや寛解したところで彼をドイツのアーヘンに連れて行き、同地のミネラルウォーターが彼の命を少なくとも数か月ながらえてくれることを願った。しかし、反対にコンドラーチェフの病状は悪化していった。加えて彼は非常に気まぐれで、癇癪もち、加えて要求の多い患者となっており、これが既に極度に内気であったチャイコフスキーの気力を奪った。友人たちに会うためのパリへの旅はちょっとした骨休めとなったが、その友人の中にチェリストのアナトーリー・ブランドゥコーフがいた。
これらの苦しみの全てはチャイコフスキーが作曲していた音楽へも注ぎ込まれた。彼は8月25日にブランドゥコーフへ宛ててこう書き送っている。「ちょっとしたチェロの作品を書きましたので、目を通してチェロパートの仕上げをして頂ければと思います。」2日後にピアノ譜作りに着手し、8月31日にはオーケストレーションを開始している。ちなみに、上記のコンドラチェーフは同年10月3日にアーヘンで亡くなっている[1]。
初演はピアノ伴奏の形でチャイコフスキーがパリ訪問中の1888年2月28日(ユリウス暦 2月16日)にM.P.ベナルダキー(Benardaky)の自宅で行われた。チェロはブランドゥコーフ、ピアノは作曲者自身が演奏した。管弦楽伴奏版の初演は1889年11月25日、モスクワでロシア音楽協会の特別演奏会において行われた。チェロはブランドゥコーフ、タクトを握ったのは作曲者であった。
楽譜は1888年にユルゲンソンから出版された。オーケストラパート譜が1月、ピアノ伴奏譜が3月の刊行であった。総譜の出版は遅れることとなったが、これはチャイコフスキーが手稿譜を携えたまま国外へ出ており、1888年5月6日になるまでユルゲンソンへ返さなかったことが原因である。総譜の初版が世に出たのは同年7月となった。曲はブランドゥコーフへと献呈された[2]。
演奏時間
約7分[3]。

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\key b \minor \time 2/4 \clef tenor
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a32-.[ b-. cis-. d-.] cis-. d-. e-. g-. fis-.[ a-. fis-. d-.] cis-. d-. cis-. b-.
a-.[ b-. cis-. d-.] cis-. d-. e-. g-. fis16-. d-. a'8~ a32
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