奉天満鉄付属地

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1925年から1933年の奉天満鉄付属地、空撮。画像の上が西方向

奉天満鉄付属地(ほうてんまんてつふぞくち)は、中華民国奉天市(現在の中華人民共和国瀋陽市)に南満洲鉄道(満鉄)が保有していた鉄道附属地

1930年発行の英語の奉天市地図。右半分が旧市街("OLD TOWN")、その中央の四角が旧奉天城。左半分が奉天商埠地中国語版("SHANG-FU-TI")と奉天満鉄附属地("NEW TOWN")、左端付近に奉天駅(現在の瀋陽駅)。

1905年に日本日露戦争に勝利し、ポーツマス条約に基づいてそれまでロシア帝国が持っていた東清鉄道南満州支線の権益を獲得し、同時に奉天満鉄附属地を含むロシアの鉄道附属地を継承した[1]。奉天満鉄附属地は、これらの南満洲鉄道附属地の中で面積が最大であった[2]

またロシア軍は1903年に一時的に奉鉄を占領し軍政を敷いたが、ロシアは奉天駅周辺に都市を建設することはなかった。また、鉄道の西側は未開発の土地であり、駅の東側(駅正面側)においても建物は多くなかった。なお同年に開設された奉天商埠地中国語版は、奉天駅と旧奉天城の中間に位置していた[3]:39

1937年12月1日に奉天満鉄附属地は奉天市公署中国語版に引き渡され、奉天市の行政区域に組み込まれた[4]:21。1938年に奉天市にが施行された際にこれらの区画には大和区が設立されその後、朝日区敷島区に分割した。この朝日区と敷島区は元の商埠地の範囲を含み、一方の大和区は元の満鉄附属地区域に相当した。

1945年の日本の降伏によって、大和区、朝日区、敷島区はそれぞれ和平区、南市区、北市区と改称する。国共内戦の後、中華人民共和国が成立間もない頃にこれらの3つは合併して、和平区となった[5]

都市計画

奉天市街略図、奉天旅館組合発行、1945年以前。上端中央が奉天駅、駅前から真下に伸びるのが千代田通(現在の中華路中国語版)。

他の満鉄附属地と同様、奉天満鉄附属地は碁盤目状の街路で構成され、奉天駅を中心とした主幹道路が放射状に配置され、主幹道路上には広場が設けられた。附属地で最も幅広い主幹道路は、駅に向かい合った瀋陽大街(後の千代田通、現在の中華路中国語版)と、線路に平行する鉄路大街(現在の勝利大街)であった。但し附属地で最も施設が充実し、繁華街となっていたのは昭徳大街(後に浪速通、現在の中山路中国語版)であった。また、千代田通と浪速通の東端は、奉天老城とを結ぶ幹線道路でつながっていた[6]:462,463

千代田通と平行する東西方向の街路は「○条通」と命名され、千代田通の北側は北一条通(現・北一馬路)、北二条通……と続き、南側は南一条通(現・南一馬路)などと呼ばれた。1940年時点で北側は北九条通まで、南側は南十二条通まで延びており、南五条通以南は主に住宅地であった[6]:463。 千代田通と垂直に交わる南北方向の街路は「○町」と命名された。また、北四条通や千代田通を境界として、同一道路でも区間ごとに異なる町名が付けられた。例えば、大広場(浪速広場、現在の中山広場中国語版)を通過する南北道路は、大広場(北四条通)以北が加茂町、大広場と千代田通の間が富士町、千代田通以南が萩町と呼ばれた。千代田通以北の町名は日本内地の景勝地や山河に、千代田通以南は四季の風物に由来するものが多かった[6]:463

附属地内には満鉄の各種施設や職員住宅のほか、病院学校公会堂神社図書館、さらには墓地火葬場食肉に加工する屠畜場などの公共施設が整備された。また、満洲国全体において水資源が乏しかったため、満鉄附属地では上下水道の整備が特に重視され、飲料水の確保に力が注がれた。奉天附属地には千代田公園付近に2基の給水塔が建設された[3]:39

日本人人口の変遷

都市区画

脚注

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