奥山公重
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生涯
三河国亀山城主・奥平貞能(美作守)の家臣・奥平貞久の七男[1][注釈 1]。
幼時から剣術を好み、三河では孫次郎に及ぶ腕前の持ち主はいないほどに上達した。剣名高い上泉信綱(伊勢守)[注釈 2]が甲府に立ち寄ったことを聞いて出かけていき、入門。上泉が甲府から高山に移って滞在した1年あまりの間に随従し、新陰流の的伝を得る。高山から戻ると、奥山郷(静岡県磐田郡水窪町、現浜松市天竜区)に入り、日夜奥山明神に祈願をつづけ、永禄8年(1565年)、神託によって奥義を極め、神影流、奥山流と称した。休賀斎は海内無双の兵法家と呼ばれ、入門者が多かった。
元亀元年(1570年)、姉川の戦いで功があり、徳川家康に招かれて7年間、刀術を教授。天正2年11月28日(1574年12月21日)、家康より御朱印を賜って御台所御守役となる。後に病気のため辞仕し、旧主の貞能のもとに戻った。
慶長7年(1602年)、死去。技芸は子の孫左衛門公唯に引き継がれた。
神影流の道統
居住地について
奥山明神の所在地は奥山郷(現浜松市天竜区)ではなく、奥山(現浜松市浜名区)であった。奥山明神は田草明神という改称を経た後、明治初期に奥山神社へと再改称し、明治中期にはやや東にある現在地に移築される。奥山郷は北遠地方の国人領主であった奥山氏の統治領域を指す抽象的な地域名であり、奥山とは明確に異なる。