奥村綱雄
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1903年(明治36年)3月5日、滋賀県甲賀郡信楽町(現:甲賀市)に生まれる[1][2]。生家は代々信楽焼の窯元をやっていたが、父は綱雄が6歳の時に大阪堺に移住し菓子の製造販売業を始めた[2]。
1923年(大正12年)大阪高等商業学校(現:大阪市立大学)卒業[3]。1926年(大正15年)に京都帝国大学経済学部卒業後、野村證券へ入社[1][2]。1936年に満州視察団に参加し、1945年に取締役に就任した。1946年(昭和21年)公職追放による経営陣退陣の中、綱雄は1947年(昭和22年)に専務、1948年(昭和23年)には第3代社長に就任した[1][2]。証券取引法に基づく証券業者として登録。1951年(昭和26年)に連合国との交渉の末、証券投資信託法を実現させ、委託会社の免許を受けることに成功し、財閥指定を受けた「野村」の社名を守った[1][2]。1959年(昭和34年)に社長の座を瀬川美能留に譲り会長に就任し[2]、1968年(昭和43年)に相談役に退いた。ちなみにこの瀬川と、親友の杉山金太郎と共に自らの母校大阪市立大学に奨学金財団有恒会を創設したことでも知られる。
その他には東京証券取引所理事、経済団体連合会外資問題委員会委員長、ボーイスカウト日本連盟理事長なども務めた。石坂泰三経団連会長と共に資本自由化促進の旗振り役を務めた[1]。1972年(昭和47年)11月7日死去、享年69。
語録
- 「ダイヤモンドは、中央の面をかこみ、多くの面が多角的に集まって底知れぬ光を放つ。会社経営もまたかくありたい。一人の独裁でもいけないし、悪平等でもいけない。個が集まって全を形成するが、個は全あっての個であって、個あっての全ではない」[4]