奥田重栄
From Wikipedia, the free encyclopedia
旧会津藩士・警察官の中野重村の次男として生まれ、1888年(明治21年)1月に叔母の夫である元会津藩鉱山奉行・奥田鑛一郎の養子となる[2]。陸軍幼年学校から陸軍士官学校入校(5期)。同期生に菱刈隆、松江豊寿がいる。1894年(明治27年)9月、陸軍歩兵少尉に任官し、歩兵第5連隊付となる。
ほどなく日清戦争の開戦を迎え出征。1895年(明治28年)1月、龍睡島へ上陸したのを皮切りに虎山、寧海州、威衛海と転戦。全州の守備についたのち、台湾・基隆に上陸。急水渓河口、王爺頭などで歴戦した。日露戦争では歩兵第37連隊第12中隊長として沙河会戦に参戦し、林盛堡のロシア軍を駆逐した。奥田はこの戦いで負傷している。
歩兵第16連隊附中佐、福知山連隊区司令官を経て、1917年(大正6年)11月15日、歩兵第40連隊長に補され同職を3年半務めた後、1921年(大正10年)4月、少将へ昇進し台湾第2守備隊司令官となる。1924年(大正13年)2月26日予備役編入。
その後は京都に居住し、自宅には財団法人黒谷会津墓地保護会の京都支部(本部は会津松平家邸)が設置された[3]。稚松会会員。