女子学生亡国論

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女子学生亡国論(じょしがくせいぼうこくろん)とは、1960年代前半に日本で提唱された大学教育に関する理論。男女共学の大学における女性の大学生の存在が学問の水準を下げて国に悪影響を与えるという内容である。きっかけは、1962年に雑誌『婦人公論』に掲載された暉峻康隆のエッセイであった。これをマスコミが「女子学生亡国論」と名付けてセンセーショナルに報道し、当時の流行語となった。

女子学生亡国論は、『婦人公論』1962年3月号に掲載された早稲田大学教授の暉峻康隆のエッセイ「女子学生世にはばかる」、この反響を受けて4月号に掲載された慶応義塾大学教授の池田彌三郎のエッセイ「大学女禍論」に端を発する[1]

暉峻の「女子学生、世にはばかる」は、女子学生の意識が結婚目的へと変容している点や、女子学生の増加によって男子学生が排除される懸念を指摘するものであった。結婚を目的とするならば女子大学への進学を推奨する一方で、教養ある母親の増加という利点も認め、男女比が均衡する範囲であれば許容できるとの見解を示している[1]

池田は「大学女禍論」の中で、女子学生とその保護者の教育投資への消極性、広く浅くの勉学態度による学問的寄与の低さ、結婚を目的とする職業意識の欠如、さらには結婚後の寄付金が夫の母校へ流出する懸念などを挙げ、女子学生の存在を批判的に論じた[1]

背景

男女共学の実現

戦前の日本の男女教育は、小学校の時点で男子組と女子組に分けられ、中等教育の段階では男子は旧制中学校、女子は高等女学校と進学先が分けられている状況であった。この頃、ほとんどの大学は女子を受け入れておらず、受け入れていたのは東北帝国大学などごくわずかであった[2]

太平洋戦争の終戦直後の1945年(昭和20年)12月、日本は占領政策の一端として、「女子教育刷新要綱」を受諾、男女共学制や女子専門学校を定めた[2]。大学は一応再開されていたものの、終戦直後ということから、学生に長期休暇を与えるなど当時の大学は厳しい状況であり、男女共学の実現どころではなかった。実際に男女共学が実現したのは1949年(昭和24年)の新制大学の発足からである[3]

女子大学生の急増

新制大学の発足後、女子学生の数は増加の一途をたどった。早稲田大学を例にとると、新制度発足時の1949年時点では女子学生は346人と少数であったが、1951年時点では、2508人と急増している。女子学生は文学部に集中する傾向があり、慶応義塾大学では、1951年時点で文学部の学生の77%を女子が占めていた[4]

女子学生亡国論が登場した1962年当時、全大学生の内に女子が占める割合は15.1%ほどであったが、文学部に限ってみると41.2%を占める状況であった[5]。女性史研究家の加納実紀代は、全体では少数派であった女子学生が亡国論として批判の対象になったのは、文学部が女子に占拠されてしまうという危機感があったからだと分析している[6]

女子学生の意識の変化

新制大学発足当時の女子学生は医者を目指して医学部に入学するなど明確な目的意識を持っていた。しかし昭和30年代、戦後の混乱が落ち着いてくると、女子学生の意識は教養を身に着けて結婚への道づくりとしようとするケースが増加し始めた[3]

女子学生亡国論の登場

暉峻康隆の「女子学生世にはばかる」

暉峻康隆

女子学生亡国論は、『婦人公論』1962年3月号に掲載された早稲田大学教授の暉峻康隆のエッセイ「女子学生世にはばかるー彼女らの目的は何か」に端を発する。なお、暉峻の女子学生への批判はこれがはじめてではなく、『婦人公論』1957年1月号に「女子学生はなにゆえ大学に行く」を寄稿、1年前の1961年1月の『朝日新聞』の記事においても女子学生を批判していた[7]

暉峻が教授を務めていた当時の早稲田大学では女子学生急増のさなかであった。面接である女子学生に対して入学の目的を訪ねたところ、特に目的はなく結婚するまでに教養を身につけておきたいとの返答があった。学者や社会人の養成を目的とする大学に合っていないと危機感を抱いた暉峻は、「女子学生世にはばかる」の一文を書くことにしたのである[8]

女子学生亡国論が一躍有名となったきっかけは、1962年3月23日に暉峻康隆、慶応義塾大学教授の奥野信太郎東京大学教養学部教授の田辺貞之助TBSラジオただいま放談中」で「大学は花嫁学校か ー女子学生亡国論」というタイトルで対談したことであった。対談で文学部の教授3人は、女子学生が在籍することで講義内容に制約が生じ、教育に困難があると訴えた[7]

池田彌三郎の大学女禍論

池田彌三郎

暉峻のエッセイに大きな反響があったことを受け、『婦人公論』の編集部は慶應義塾大学の池田彌三郎にエッセイの執筆を依頼した。『婦人公論』2月号に池田のエッセイ「大学女禍論」が掲載され、これが暉峻のエッセイとともに女子学生亡国論の発端として扱われることになった[9]。当時の池田教授はNHKの人気番組『私だけが知っている』にレギュラー出演していたことにより大きな影響力を持っていた[10]

週刊朝日の「女子学生は亡国か興国か」

週刊朝日』は、1962年6月29日号に「女子学生は亡国か興国か」という記事を掲載し、女子学生肯定派と否定派の双方の意見を載せている。否定派は、暉峻や奥野に加え、関西学院大学田中俊一が「女子学生は教えやすいものの研究意欲が薄いと感じる」と論じている[11]

対して肯定派は青山学院大学教授の関根英男法政大学教授の乾孝学習院大学大野晋がいた。関根は、フランスのソルボンヌ大学には女子学生が多く。文学の勉強は人生について学ぶことになるとした。乾は、女子は男子学生のように就職に迫られることがなく、男子に代わって学問を背負うべきだと主張した。大野は、ヨーロッパでは母親が子供の読書相手となっており、日本の母親もそれだけの教養を身につけるべきであると論じた[11]

このころの女子学生肯定派の意見は、大野のように「教養のある母親」を歓迎する論調が主であった。女子学生を肯定する意見ではあるが、女性の就業を否定する性別役割分業に即するものであった[12]

反響

発表当時の反響

マスメディア

これらの女子学生批判は大きな反響を呼んだ。この問題に対して『毎日新聞』が意見を求めたところ、1000通を超える投書が寄せられたという。これらの投書をもとに『毎日新聞』は1962年11月から12月にかけて「女子学生亡国論を考える」という記事を23回にわたって連載している。その他にも週刊誌をはじめとする様々なマスメディアが女子学生亡国論について書き立て、当時の流行語となった[13]

女子学生の反応

当時女学生だった加納によれば、女子寮生たちの反応は「アホなこといいよるなぁ」という反応が多数であったという[14]

当時早稲田大学の学生で暉峻の授業も受けていたエッセイストの下重暁子は、女子学生亡国論を「大卒を生かして仕事をしなければ無駄だ。もっと頑張れよ」という「女子学生への応援歌」のメッセージだと受け取っていたという[15]

池井優は、女子学生亡国論について、流行語にはなったものの社会的議論を巻き起こすものにはならなかったと総括している[15]

女子学生亡国論のその後

熊本大学学長の女子締め出し発言

女子学生亡国論と関連する出来事として熊本大学長の発言がある。1966年(昭和41年)、熊本大学長の柳本武は記者会見において、「激増する女子入学者を締め出す方策を考えたい」と発言した。その背景には、女子学生の増加が大学の後継者不足を招き、学問の危機に繋がるとの危機感があった[16][17]

当時、同大の入学者全体に占める女性の割合は25.7%であったが、学部別では偏りが見られた。特に薬学部で74%、教育学部で51%と過半数を占めており、学長は教授陣から「後継者が育たない」「授業に張り合いがない」といった相談を頻繁に受けていたことが、この発言の背景にある[16]

この発言に対し、文部省は、女子学生の急増が研究者の養成などで問題となっているのは事実であるが、国立大学は男女双方に門戸を開放するものであって女子だけを入学規制するのは問題があるとして学長に事情を聴取することとした[16]

20年後のシンポジウム

女子学生亡国論が登場して20年が経過した1981年(昭和56年)9月12日、東京都千代田区のブレスセンターで「女子学生亡国論20年目の回答」と題するシンポジウムが開催された。主催は女子学生就職問題シンポジウム実行委員会で、就職難にあえぐ大卒の女子を激励するために催された。実行委員会のメンバーは亡国論が世間を賑わす中で大学を卒業し社会で活躍する女性たちで構成された。主なメンバーには碧海酉癸、下重暁子、津村明子樋口恵子冨士谷あつ子村岡洋子などがいた[18]

シンポジウムの開催に際して、池田彌三郎はマスコミから感想を求められ、「今さら古いことを…」とつぶやいたとされる[18]

シンポジウムは4部構成で実施された。第1部は代表の冨士谷による挨拶と問題提起、第2部は企業関係者ら男性3名を交えた大卒女性の活用に関するパネルディスカッションが行われた。続く第3部では、女子学生亡国論の騒動期に卒業し社会的な地位を確立した女性たちが体験報告を行い、第4部は参加者全員による討論が行われた。最後に主催者側から雇用の男女平等を保障する法的措置の実現など十一項目を採択して締めくくられた。このシンポジウムから5年後の1986年(昭和61年)には男女雇用機会均等法が制定されている[18]

後世の評価

脚注

参考文献

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