妻木頼黄

From Wikipedia, the free encyclopedia

生誕 1860年1月2日
(旧暦安政6年12月10日[1]
日本の旗 日本 江戸赤坂
死没 (1916-10-10) 1916年10月10日(56歳没)
大正5年10月10日)
日本の旗 日本 東京府東京市
国籍 日本の旗 日本
妻木頼黄
生誕 1860年1月2日
(旧暦安政6年12月10日[1]
日本の旗 日本 江戸赤坂
死没 (1916-10-10) 1916年10月10日(56歳没)
大正5年10月10日)
日本の旗 日本 東京府東京市
国籍 日本の旗 日本
出身校 コーネル大学
職業 建築家
建築物 東京府庁舎
横浜正金銀行本店
日本橋
テンプレートを表示

妻木 頼黄(つまき よりなか[注 1]1860年1月2日安政6年12月10日〉 - 1916年10月10日)は、日本の建築家で、大蔵省営繕の総元締めとして権勢を誇った技官。明治建築界の三大巨匠の一人と呼ばれた。工手学校(現工学院大学)造家学科教員、建築学博士。

幕末の旗本の長男として江戸で生まれ、工部大学校造家学科(のちの東京大学建築学科)に入学するが中途退学してコーネル大学建築学科に留学。卒業後は現地の建築事務所で実務を修行して日本に戻ると、公務員として働く。大蔵省で数多くの官庁や監獄[2]ほかの建築を手がけ、明治時代の官庁営繕の組織と管理手法を確立した[3]

1859年、江戸の生まれで幼名は久之丞、父は旗本・妻木源三郎頼功(御使番衆1千石[4])上総妻木家の養嗣子で11代当主、父方の祖父は上郷妻木氏7代の頼幸である。1862年に父は長崎表御用の任地で没した為、久之丞は3歳で12代当主を継ぐ。

妻木は数えの18歳になる明治9年(1876年)、家屋敷を売却し渡米するが、日本で学ぶよう諭され帰国。1878年には工部大学校造家学科(のちの東大建築学科)に入学しジョサイア・コンドルに学び[注 2]辰野金吾の後輩に当たる。23歳になる1882年、卒業まで1年を残して同学を退学するとアメリカに渡ってコーネル大学建築学科3年に編入、同学で学士号を授けられて卒業する[注 3]。ロバートソン事務所(ニューヨーク)で修行して1885年に帰国した。

東京府に勤務した妻木は1886年、議院(国会議事堂)建設の組織である(内閣)臨時建築局に出仕する。この年にエンデ=ベックマンの示した官庁集中計画が決まり、その一環として[3]プロジェクト発注先の事務所があるドイツの議院視察が提議され[6]渡辺譲河合浩蔵、職人らとともに視察に出かけて1888年に帰朝する。上下水道システム[7][8]、窓に用いる板ガラスの製造[9]など技術系の先端情報を伝え、また建築に関する法規にも目を配ってドイツ政府[10]、フランス政府[11][12]が定める建築条例など妻木は見聞した知識を発表するが、議院は結局、建築予算を優先して[13]木造の仮建築のまましのぐことになり、本建築の建設は見送られた。

大蔵省技官として港湾や税関、煙草・塩の専売など国の税務に関わる施設の建設、工務の運営管理に当たる[注 4]妻木は、東京府の庁舎を仕上げた[17]

1894年、日清戦争の戦端を開いた政府に、大本営の置かれた広島に臨時議院(広島臨時仮議事堂)を建設するよう求められると、妻木は短期日で完成させ[18]、この功績で叙勲された。また、奈良の東大寺大仏殿修復にも関わった。

1901年欧米を視察、同年、工学博士号を授かる。

国会議事堂の建設

工部大学校の恩師コンドルが進めた東京の都市計画と中核をなす議院(国会議事堂)建設に、妻木も意欲を燃やした。臨時建築局は1888年(明治21年)に山尾庸三を総裁に迎え、官庁集中計画が引き直される[13]と、予算優先に舵が切られた。

日露戦争後、桂内閣のもとで再び議院すなわち国会議事堂の建築機運が盛り上がるが、辰野金吾らは公開コンペ開催を要求し、議院の設計を進めていた[3]妻木らを専横と批判した。第3次桂内閣大正政変のため1913年に総辞職して倒れると議院建築の計画も棚上げされ、妻木は官職を辞任して野に降る。木造の議院は、妻木の生前に煉瓦もしくは石材に改められることはなかった。

晩年は病気がちになり、妻木頼黄は1916年10月10日(56歳没)に死去した。

栄典

学位

  • コーネル大学学士号
  • 1901年、工学博士号

作品

広島臨時仮議事堂(1894年)
建造物名所在地状態備考
東京府庁1894年(明治27年)東京都港区現存せず
旧丸三麦酒 醸造工場
(現・半田赤レンガ建物
1898年(明治31年)愛知県半田市登録有形文化財実施設計のみ。カブトビール工場 → 日本食品化工
半田工場 → 現・半田赤レンガ建物
旧日本勧業銀行本店
(現・千葉トヨペット)
1899年(明治32年)千葉市美浜区登録有形文化財担当武田五一
横浜正金銀行本店
(現・神奈川県立歴史博物館)
1904年(明治37年)神奈川県横浜市重要文化財担当遠藤於莵
旧醸造試験場第一工場1904年(明治37年)東京都北区重要文化財
井伊直弼像台座1909年(明治42年)神奈川県横浜市
掃部山公園
旧横浜正金銀行大連支店
(現・中国銀行大連分行)
1909年(明治42年)中国担当大田毅
横浜正金銀行北京支店1910年(明治43年)中国中華人民共和国全国重点文物保護単位
旧横浜新港埠頭倉庫
(現・横浜赤レンガ倉庫)
1911年(明治44年)神奈川県横浜市
日本橋1911年(明治44年)東京都中央区重要文化財装飾意匠設計
内閣文庫庁舎1911年(明治44年)愛知県犬山市博物館明治村に移築、担当大熊喜邦
日本赤十字社1912年(大正元年)東京都港区現存せず
拓殖大学恩賜記念講堂1914年(大正3年)東京都八王子市復元2000年に拓殖大学恩賜記念館として復元
旧山口県庁舎
(現・山口県政資料館)
1914年(大正3年)山口県山口市重要文化財担当武田五一、大熊喜邦

主な著作

書籍
  • 妻木 頼黄『営繕局設置に関する書類』[出版者不明]、1902年。 NCID BB28136134 

論文

以下、いずれも日本建築学会『建築雑誌』(ISSN 0003-8555)に載せた論文。現代表記に改めた。

単著
共著
  • 伊東 忠太、大澤 三之助、葛西 萬司、片山 東熊、吉井 茂則、辰野 金吾、武田 及一、曾根 達蔵、塚本 靖、寺野 精一、志賀 重列、清水 釘吉「中村教授に関する諸家の談話 : 我が中村先生」『建築雑誌』1913-12、324号、680-689ページ。CRID 1570009752334455424

参考文献

脚注の典拠。主な執筆者、編者の順。

脚注

関連作品

関連項目

外部リンク

Related Articles

Wikiwand AI