形而上学的自然主義
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形而上学的自然主義(けいじじょうがくてきしぜんしゅぎ、英語: metaphysical naturalism。存在論的自然主義(英語: ontological naturalism)、哲学的自然主義(英語: philosophical naturalism)、反超自然主義(英語: antisupernaturalism)ともいう)とは、自然科学によって研究されるような種類の自然的要素、原理、関係以外には何も存在しない、と主張する哲学的世界観である。方法論的自然主義は科学の哲学的基盤であるが、形而上学的自然主義はそのために可能な一つの存在論的基礎を提供するにすぎない。これに対応する神学的観点を広く言えば、宗教的自然主義あるいは霊的自然主義である。より具体的には、形而上学的自然主義は多くの宗教の一部をなす超自然的概念や説明を退ける。
定義
カール・セーガンの言葉によれば、「コスモスは、あるところのもの、かつてあったもの、これからあるであろうもののすべてである」[1]。
アーサー・C・ダントーによれば、近年の用法における自然主義とは、哲学的一元論の一種であり、これによれば、存在するもの、あるいは生起するものは何であれ、自然科学において範例的に例示されるとはいえ、対象や出来事の領域から領域へと連続している方法によって説明されうるという意味で自然的である。それゆえ自然主義は論争的には、原理的に科学的説明の範囲を超えるところに位置するような実体が存在する、あるいは存在しうるという見方を拒絶するものと定義される[2]。
「自然主義」という一般用語の曖昧さに関して、デイヴィッド・パピノーは現在の用法を、ジョン・デューイ、アーネスト・ネーゲル、シドニー・フック、ロイ・ウッド・セラーズといった20世紀初頭のアメリカの哲学者たちに遡って辿る。「そのように理解されたとき、『自然主義』は現代の哲学者に対して適用されるものとしてはそれほど多くを語らない用語である。現代の哲学者の大多数は、いま特徴づけた意味での自然主義を喜んで受け入れるであろう。すなわち、彼らは『超自然的』実体を退け、かつ、科学が『人間の精神』についての重要な真理への可能な経路(必ずしも唯一の経路でないにせよ)であることを認めるであろう」[3]。パピノーは、哲学者たちは自然主義を広く「肯定的」用語とみなしており、「今日活動している哲学者で『非自然主義者』と自らを称することを喜ぶ者はほとんどいない」と述べつつ、「宗教に関心をもつ哲学者は『自然主義』にあまり熱心ではない傾向がある」こと、また、その人気ゆえに「不可避な」分岐があるにしても、より狭く解釈した場合(これは例えばジョン・マクダウェル、デイヴィッド・チャーマーズ、ジェニファー・ホーンズビーを残念がらせている)、それによって排除されない者たちはなお「『自然主義』の閾値をより高く設定する」ことに満足したままである、と指摘する[3]。
哲学者・神学者アルヴィン・プランティンガは、自然主義に対する一般的な批判者として知られているが、こう述べている。「自然主義はおそらく宗教ではない。しかし非常に重要な一点において、自然主義は宗教に似ている。すなわち、それは宗教の認知的機能を果たしうると言える。宗教が典型的に答えを与えるような、人間にとって深い問いの数々がある(中略)典型的な宗教と同様に、自然主義もまたこれらおよび類似の問いに対する一連の答えを与える」[4]。
科学と自然主義
形而上学的自然主義は、Kate と Vitaly(2000年)によって記述されたように、科学の哲学的基礎である。「科学的方法の基礎においては、ある種の哲学的前提がなされている。すなわち、(1)実在は客観的かつ一貫的であること、(2)人間には実在を正確に知覚する能力があること、(3)実在世界の諸要素について合理的な説明が存在すること、である。これらの前提は自然主義の基礎であり、科学はその哲学のうえに基礎づけられている。哲学は、われわれがなすすべての決定や立場の核心に少なくとも暗黙的にあるのだから、科学的探究が成立するためには正しい哲学が必要であることは明らかである」[5]。スティーヴン・シェイファーズマンも、方法論的自然主義は「それを完全に受け入れたり信じたりするかどうかにかかわらず、科学的方法内における哲学的自然主義の採用ないし想定である(中略)科学は形而上学的ではなく、その成功のためにいかなる形而上学の究極的真理にも依存しない。しかし方法論的自然主義は、科学が成功するための戦略ないし作業仮説として採用されなければならない。それゆえわれわれは、自然主義の究極的真理については不可知論的でありうるが、それでもなお自然主義を採用し、自然がすべてであるかのように自然を探究しなければならない」と同意する[6]。
関連する諸信念
現代の自然主義者は、形而上学的自然主義のなかでさまざまな多様な信念をもっている。形而上学的自然主義者のほとんどは、何らかの形の唯物論あるいは物理主義を採用している[7]。
自然科学
形而上学的自然主義によれば、もし自然がすべてであるならば、ビッグバン[8]、太陽系の形成、生命の自然発生、および進化に関わる諸過程は、いずれも超自然的影響を伴わない自然現象であることになる[9][10]。
自然現象としての心
形而上学的自然主義者は、魂や霊を信じず、幽霊も信じず、心を構成するものを説明するときに実体二元論に訴えることもまれである。W・T・ステースによれば、もし人の心、あるいはむしろ人格としての同一性および存在が、まったく自然過程の産物であるならば、三つの帰結が導かれる。認知科学は、宗教、道徳、言語などの文化的・心理的現象が自然過程をつうじてどのように進化してきたかについて、説明を与えることができる。意識それ自体もまた、他の特性を選択するのと同じ進化的原理に従いうる[11]。
知性と理性の有用性
形而上学的自然主義者は、知性とは自然に進化してきた諸能力の洗練と改善である、と考える。自然主義者は、偽である信念より真である信念を多くもちたいと願う者は誰でも、信念を検証し形成する際に自身の理性を完成させ一貫して用いるべきだ、と信じる。経験的方法(とくに科学において実証された方法)は、実在についての事実を発見するうえで他に並ぶものがなく、他方、純粋理性のみによる方法は論理的誤りを確実に発見しうる[12]。
魂についての見解
形而上学的自然主義によれば、非物質的なものは過程的でも具現化されえないものでもあり、無から区別されない。魂の非物質的な無は非存在論的状態であり、区分けされえず、異なる人格や異なる記憶に帰属されえず、機能していない。そしてそれ(無)は、情報を表現するために異なる状態において顕現することはできない。
形而上学的自然主義への議論
物理的な心からの議論
心身二元論への批判のなかで、ポール・チャーチランドは、人格の心的実体および/または性質が脳損傷によって有意に変化したり損なわれたりするのは常にそうである、と書いている。もし心が脳とは完全に別個の実体であるとすれば、脳が傷ついるたびに心もまた傷つくということはいかにして可能なのであろうか。実際、人間が脳の特定の部分が損傷したときに被るであろう心的・心理的劣化や変化の種類を予測し説明することさえも、しばしば可能なのである。そこで二元論者が直面するべき問いは、もし心が脳から区別された非物質的実体であるとしたら、あるいはその性質が脳から存在論的に独立であるとしたら、これらすべてはいかに説明されうるか、ということである[13]。
現代の実験は、脳と心の関係が単なる相関以上のものであることを示してきた。脳の特定の部位を制御された条件下で繰り返し損傷したり操作したりし(例えばサルにおいて)、心的状態や能力の測定において信頼できる仕方で同じ結果が得られることによって、神経科学者たちは、脳の損傷と心的劣化の関係はおそらく因果的であることを示してきた。この結論は、神経活性化学物質(神経伝達物質に影響するものなど)が心的機能に与える効果のデータ[14]のみならず、神経刺激(経頭蓋磁気刺激を含む脳の直接的電気刺激)についての研究[15]からも支持される。
エドワード・フィーザーやタイラー・バージといった批判者は、こうした議論を「神経科学的たわごと」と評し、それらに欠陥があるとみなしたり、トマス主義のような他の形而上学的見解と両立可能であるとみなしたりする[16][17]。哲学者C・スティーヴン・エヴァンスによれば、
頭部を棍棒で打ち砕かれた人が、思考や意識的過程をもつ能力をすみやかに失うことを知るために、われわれは神経生理学を必要としなかった。神経生理学的発見を、人間が常に知ってきた——少なくとも知ることができたであろう——こと、すなわち心(少なくともこの可死的な生において)は機能する脳を要請し依存するということについて、詳細で精密な知識を与えるものと考えてよくないだろうか。心がいかにして身体に依存するかについて、現在のわれわれは過去よりはるかに多くを知っている。とはいえ、心が、少なくとも死に先立って、身体に依存しているということは、20世紀になって発見されたものでは確かにない[18]。
認知バイアスからの議論
理性からの論証や自然主義に対する進化論的議論とは対照的に、認知バイアスは神の業としてよりも自然的原因によってよりよく説明される、と論じることができる[19]。
形而上学的自然主義に反対する議論
形而上学的自然主義に反対する議論には、以下の例が含まれる。
理性からの論証
ヴィクター・レパート、ウィリアム・ハスカー、アルヴィン・プランティンガといった哲学者・神学者は、「理性からの論証」と呼ばれる二元論への議論を発展させてきた。彼らはこの議論を最初に光のもとに連れ出した功績をC・S・ルイスに帰す。ルイスはその著書『奇跡』のなかでこの議論を「自然主義の根本的困難」と呼んだ。これは『奇跡』第三章の表題である[20]。
この議論は次のように立てられる。自然主義が含意するように、われわれのあらゆる思考が物理的原因の結果であるならば、われわれにはそれらが理にかなった根拠の帰結でもあると想定する理由がない。しかし、知識は根拠から帰結への推論によって把捉される。それゆえ、自然主義が真であるならば、まぐれを除けば、自然主義(あるいは何ものでも)を知る方法はないことになる[20]。
この論理によって、「自然主義は妥当であると信じる理由が私にはある」という言明は、「私は決して真実を語らない」と同じ仕方で不整合である[21]。すなわち、その真理を結論することは、その結論が到達する根拠そのものを取り去ってしまうのである。本書での議論を要約するために、ルイスは類似の推論の道筋に訴えるJ・B・S・ホールデンを引用する[22]。
私の心的過程がもっぱら私の脳内の原子の運動によって決定されているならば、私の信念が真であると想定する理由が私にはない(中略)それゆえ、私の脳が原子から構成されていると想定する理由が私にはない。—J・B・S・ホールデン、Possible Worlds、209頁
ルイス自身もエッセイ「神学は詩か」のなかで、この議論を次のように同様の仕方で要約している。
もし心がもっぱら脳に依存し、脳が生化学に依存し、生化学が(長い目で見れば)原子の無意味な流れに依存しているのだとすれば、これらの心の思考が木々を吹き抜ける風の音以上に何らかの有意性をもつということを、私には理解できない。—C・S・ルイス、The Weight of Glory and Other Addresses、139頁
しかしルイスはのちに、自身の『奇跡』での議論へのエリザベス・アンスコムの応答に同意した[23]。彼女は、議論が非合理的要因による物理的原因と結果によって生成された命題からなるとしても、なお妥当であり根拠から帰結に至るものでありうることを示した[24]。アンスコムと同様に、リチャード・キャリアとジョン・ベヴァスラースは、その第一前提が支持しがたいことから理性からの論証に対する広範な反論を書いた[25]。
自然主義に対する進化論的議論
ノートルダム大学宗教哲学教授でキリスト教護教家のアルヴィン・プランティンガは、自然主義に対する進化論的議論のなかで、進化が信頼できる真なる信念をもつ人間を作りだした確率は、彼らの進化が、例えば神によって導かれたものでないかぎり、低いか不可知である、と論じる。グラスゴー大学のデイヴィッド・カハンによれば、信念がいかにして正当化されているかを理解するためには、プランティンガの認識論におけるように、超自然的有神論の文脈において正当化が見出されなければならない[26][27][28](関連して超正常刺激も参照)。
プランティンガは、自然主義と進化論があいまって「われわれの認知能力は信頼できるという信念に対する」乗り越えがたい敗北因(defeater)、すなわちデカルトの欺く神や培養槽の中の脳に類する懐疑論的議論を提供する、と論じる[29]。
哲学的自然主義とは、いかなる超自然的実体も——たとえば神のような人格的存在は存在せず、それ以外のいかなる超自然的実体も、神に類するものも——存在しない、という信念である、ととろう。私の主張は、自然主義と現代の進化論は深刻に互いに食い違っているということ、しかも後者が通常前者の建物を支える主柱の一つとみなされているにもかかわらずそうである、ということであった(もちろん私は進化論や、その周辺のいかなるものも攻撃しているのではない。私はむしろ、自然主義と人間がそのような仕方で進化してきたという見方との連言を攻撃しているのである。有神論と、人間が現代の進化科学が示唆する仕方で進化してきたという考えとの連言には、同様の問題は見出さない)。より具体的には、私は、自然主義と、われわれ人間が現在の進化論的教説に従って進化してきたという信念との連言は(中略)ある興味深い仕方で自己論駁的あるいは自己言及的に不整合である、と論じた[29]。—Alvin Plantinga、"Introduction" in Naturalism Defeated?: Essays on Plantinga's Evolutionary Argument Against Naturalism
カリフォルニア大学バークレー校のブランデン・フィテルソンとウィスコンシン大学マディソン校のエリオット・ソーバーは、プランティンガは、進化と自然主義の組み合わせがより穏当な主張、すなわち「われわれの信念のうち少なくとも無視できない少数派は真である」という主張をも論駁することを示さなければならず、また認知バイアスのような欠陥もそれでもなお合理的な神の像において作られていることと整合的である、と論じる。進化科学は認知過程が、科学的企てそれ自体の可謬性を含めて、信頼できないものであることをすでに認めているのに対し、プランティンガの誇張的懐疑は、人間の心を設計した欺かない神に基礎づけられた有神論的形而上学にとってのものと同様に、自然主義にとっての敗北因ではない。「いずれも、グローバルな懐疑論を反駁する論点先取的でない議論を構築することはできないのである」[30]。プランティンガの議論はまた、哲学者ダニエル・デネットや独立研究者リチャード・キャリアによっても批判されており、両者は真理発見のための認知装置が自然選択から生じうると論じる[31]。
一人称的視点からの議論
クリスチャン・リストは、一人称的視点の存在、すなわち他者としてではなく自己自身として存在することは、物理主義を反駁する、と論じる。彼は、一人称的事実は物理的事実に付随しえないのだから、物理主義のみならず、純粋に三人称的形而上学をもつ二元論の大部分の形態をも反駁する、と論じる[32]。リストはまた、意識の理論には「四項のジレンマ」(quadrilemma)がある、と論じる。すなわち、次の四つの形而上学的主張のうちせいぜい三つしか真でありえず、それゆえ少なくとも一つは偽でなければならない。「一人称的実在論」、「非独我論」、「非分裂」、「一つの世界」[33]。彼は、独我論に陥ることなく意識の主観的本性を調停するため、「意識の多世界理論」と自身が呼ぶモデルを提案している[34]。これらの考えは、ベン・ヘリーが提案しためまいの問いと関連している[35]。