アルヴィン・プランティンガ
アメリカの有神論分析哲学者
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アルヴィン・カール・プランティンガ(Alvin Carl Plantinga, 1932.11.15.–)はアメリカの分析哲学者・神学者である。認識論と宗教哲学における研究で知られている。
人物
アルヴィン・プランティンガは1932年にミシガン州アナーバーにて、オランダ出身の哲学者である父 Cornelius A. Plantinga のもとに生まれた。
ハーバード大学で学士過程の2学期間を過ごした後、休暇中に受けたウィリアム・ハリー・ジェレマの哲学の講義に感銘を受け、ジェレマの下で哲学を学ぶためにカルヴァン大学に移った[1]。彼は1954年に同大学で哲学・心理学・文学の学士号を取得した[1]。
1955年にミシガン大学で哲学の修士号を得た後、1958年にイェール大学で哲学の博士号を取得した[2]。その後ウェイン州立大学哲学部の准教授に招かれ[1]、ロデリック・チザムの研究を始めた[3]。1963年にプランティンガはジェレマの後任としてカルヴァン大学哲学部の教授に招かれた[3]。1982年にノートルダム大学に移り、自身が共同設立したキリスト教哲学者協会の会長を務めた[2]。2010年以降はノートルダム大学名誉教授となる[2]。
プランティンガはオランダ改革派教会(アメリカ・オランダ改革派教会)の会員である[4]。
哲学
プランティンガは、幾らかの人は、論証を必要としない基礎的信念(英: basic belief)として、神が存在することを知識し得ると主張した。彼は、『神と他者の心』(1967)において、神の存在を目的論的論証によって類推することが、他者の心の存在を自分自身の心の存在から(常識的に)類推することと、等価性を持つと指摘した[5][6]。また彼は、神の存在に関する知識を基礎的信念として正当に持つことが可能になる認識論的条件について、より包括的な信念保証(英: warrant of belief)の本性に説明を求めた[7]。
自由意志の擁護
プランティンガは悪の問題について、悪の存在と、全能・全知・全善の神の存在は、論理的に矛盾せず、両立しうると主張した[8][9][10]。プランティンガによれば、人間の自由意志が可能である以上、悪へ陥る可能性が残ることは避けられない[11][12]。「(行為者が)道徳的善を為し得る世界を創造することは、同時に、代価として、(行為者が)道徳的悪を成し得る世界を創造することでもある[注 1][13]」。しかしこの議論に反対する者は、神は常に正義を行う自由な被造物を創造できたはずだと主張している[14]。
改革派認識論
プランティンガ自身が改革派認識論(英: reformed epistemology)と呼ぶ理論によれば、神への信仰は、神の存在を支持する論証や証拠の有無とは無関係に、合理的であり正当化されている。すなわち、神への信仰は、本来的に基礎的である。この立場は適正機能主義(英: proper functionalism)と呼ばれ[15]、認識論的外在主義における信頼性主義の一形態である(証拠主義への反論)。
彼は自身の立場を『保証:現在の議論』(英: Warrant: The Current Debate, 1993)で展開し、現代英米認識論におけるロデリック・チザムやアルヴィン・ゴールドマンらの議論を分析・批判した[16]。彼は、認識論の分野で一般に「正当化」(英: justification)と呼ばれているものを、「保証」(英: warrant)と区別して呼んでいる。
プランティンガは、『保証と適正な機能』(英: Warrant and Proper Function, 1993)で、信念が保証される条件として次の4つを挙げている[17]。(機能主義も参照)
- 信念保持者の認識機能が適正に機能している。
- 認識環境が、認識機能の設計上想定された環境に十分近い。
- 信念形成の意図が、真の信念形成を目的としている。
- 認識機能の設計が優れている。
最終的には、プランティンガは、認識論的自然主義(認識の正当性の保証は自然的な能力に依拠すると考える立場)は、超自然主義的な形而上学によって最もよく支えられると主張している。ここでいう超自然主義的な形而上学とは、人間の認識能力がでたらめなものではなく機能を持ったものとして存在する根拠(例えば創造者・神)を想定することである[18]。(進化論的自然主義批判)
進化論による自然主義への批判
プランティンガは、人間の理性に対する信頼性は、進化論(無誘導)を認め、かつ創造主が不在である(自然主義)とする場合、極めて低いものになると主張している。すなわち、人間の認識能力が生存に価値のある信念(摂食、逃走、闘争、生殖における成功の最大化)を形成するよう進化したものであり、必ずしも真の信念を生み出すように進化したのではないならば、人間の理性とそれが生み出した自然主義・進化論の真実性を疑う理由がある、というものである。(ただし、人間が「神の似姿」に向かうよう、進化において何らかの誘導があったとすれば、人間の認識機能への信頼の余地は残る。)
プランティンガの立場は、人間の理性への信頼と進化論を保持し、自然主義を棄却する。そして、進化の過程で生じる自然的悪の問題は、先述の「自由意志による擁護」で回答される。
プランティンガの見解によれば、科学の進化論は、神による誘導進化について否定も肯定もしておらず、同様に、科学は神の存在や活動について何も断言しない(それらは神学的・哲学的要素である)[19]。プランティンガ自身は、科学には証明できない真の命題があり、科学は知識の全てを網羅しているわけではなく、また、宗教と科学は一般に想定されるよりも共通点が多いと考えている、と述べている[20]。