学甲慈済宮葉王交趾焼文化館
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根源
学甲慈済宮は清康熙四十年(1701年)に初めて創建され、清咸豊十年(1860年)に学甲各地の紳士たちの提案により、慈済宮の再建計画が確立していた。
こうして資金を集めて修復工事を始め、交趾陶の職人である葉王(本名:葉麟趾)を招き、廟宇の壁面や屋根などの装飾を施した。
1965年に再び修繕工程を始めていた。その後、文物の保護のために修復工事が二回行われた。
そのため、慈済宮内には多くの貴重な文物が保存されている。葉王の交趾焼と何金龍の剪黏工芸以外には、潘麗水の門神彩絵や、清乾隆9年(1744年)の「慈済宮縁業碑誌」など。
また、日本昭和4年(1929年)の「慈済宮沿革碑誌石碑」と、清咸豊、同治、光緒年間の扁額、柱の対聯などの文物がある。その中に、葉王の交趾焼の作品は200件もある。[6][7]
だが、1980年12月2日から2夜連続で、慈済宮の交趾焼は何の理由もなく盗まれ、合計56件芸術品の被害に遭った。
文物が再び盗まれるのを防ぐため、学甲慈済宮は葉王の作品をすべて取り外して保存した。
さらに、嘉義の林光沂氏を招いて図面に基づき復元品を制作し、元葉王の交趾焼が放置していた場所で配置した。
1981年、廟宇中の貴重な文物を大切に保存するため、学甲慈済宮は廟宇の龍側に文化ビルを建設することを決めた。
また、信者と観光客たちに文物を観覧させるように、1983年に正式に使用を開始し、「慈済文化ビル」と名付けた。
展覧開始した後、二階の「行得館」は葉王の交趾焼作品を専門に収蔵。
2005年に修繕した後に「葉王交趾焼文化館」と改名した。
文化館には多くの精巧な交趾焼芸術作品が収蔵されており、交趾焼の制作過程が展示されると共に、葉王の生涯や事績も紹介されている。
失われてから取り戻した文物
学甲慈済宮は高額の懸賞金をかけて盗まれた交趾焼を捜索したが、盗難品の数が多いので、多数の文物が行方不明のままとなっている。
2003年、盗まれた交趾焼一部が海外の美術品オークションに出品されていた。