孫晟

From Wikipedia, the free encyclopedia

孫 晟(そん せい、生年不詳 - 956年)は、五代十国時代官僚。もとの名は鳳、またの名は忌。本貫密州高密県[1][2]

人を傷つける性格で、悪だくみを好んだ。若くして道士となり、詩を得意とし、廬山の簡寂観で詩人賈島の肖像を描き、屋壁に懸けて、これに礼をもって仕えた。観主は奇怪なでたらめであると思って、杖をとって孫晟を叩き出した。このため孫晟は当時の笑いものになった[1][2]

儒服に着がえて後唐荘宗鎮州で面会し、秘書省著作郎に任じられた。天成2年(927年)、朱守殷汴州に拠って叛くと、孫晟は幕僚となって、その起兵に賛成した。このとき孫晟は常時武装して、十数騎を率いて市を巡行し、多くの人を殺害した。城が陥落して、朱守殷が殺害されると、孫晟は姿をくらまして名を改め、その妻子を棄てて、に亡命した[3][2]

呉の楊溥南唐李昪に帝位を禅譲する冊文は孫晟の手により書かれた。孫晟は舒州節度使となり、軍に対する統制が厳しかったため、兵変を起こされ、桐城県に逃走した。このため光禄寺卿に降格された。のちに尚書右僕射に任じられた[4][2]

顕徳3年(956年)3月、後周の世宗柴栄の親征軍が揚州を陥落させると、孫晟は南唐の李璟により司空に任じられ、世宗の行在を訪れて貢献した。都亭駅で世宗と面会し、礼遇を受けた。世宗の諮問を受けて、李璟が領土を割譲し、世宗に臣従する意向であると伝えた。ところが李璟が領土を奪回する動きを見せたため、世宗は激怒して、孫晟を捕らえて獄に下した。11月17日、孫晟は処刑された[5][6]

脚注

伝記資料

参考文献

Related Articles

Wikiwand AI