弘仁14年(823年)従五位下より従五位上に叙され、天長4年(827年)正五位下、天長5年(828年)従四位下と、淳和朝前半に順調に昇進する。また、淳和朝では中務大輔・式部大輔を務めている。この間の天長4年(827年)に完成した『経国集』の編纂にも参画している。
天長10年(833年)仁明天皇の即位に伴い正四位下に昇叙される。宮内卿を経て、承和3年(836年)に治部卿に任ぜられる。承和5年(838年)6月10日卒去。享年58。最終官位は治部卿正四位下。
式部大輔を務めたことや、若い頃の和気貞臣に老荘を教授した話が伝わるなど[3]、学者であったとみられる。