安叔千

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安 叔千(あん しゅくせん、881年 - 952年)は、五代十国時代軍人は胤宗[1]沙陀三部落の出身[2][1]

騎射を習い、晋王李存勗に従って河南を平定し、奉安軍指揮使となった。後唐天成3年(928年)、定州王都の乱を討つにあたって、叔千は先鋒都指揮使となった。天成4年(929年)、王都の乱が平定されると、叔千は秦州刺史に任じられ、判涿州事・判易州事をつとめた。清泰元年(934年)、契丹が雁門に進攻してくると、叔千は石敬瑭に従って迎撃し、これを破った。検校太保・振武軍節度使に位を進めた[2][1]

後晋天福元年(936年)、高祖石敬瑭が即位すると、叔千は同平章事を加えられた。この年に静難軍節度使となった[2][1]。天福4年(939年)、横海軍節度使に任じられた[3]。天福7年(942年)、安国軍節度使に転じた[4]。叔千は野卑で文字が書けなかったため、当時の人に「安没字」といわれた[2][1]開運元年(944年)、建雄軍節度使となった[5]。少帝石重貴が契丹に対して北伐しようとすると、叔千は行営都排陣使に任じられた[2]。開運2年(945年)、右金吾衛上将軍に転じた[6]。開運4年(947年)、契丹の太宗開封府に入ると、後晋の官僚たちは赤崗で太宗を迎えたが、太宗は「おまえが安没字か。卿が邢州にいたとき、遠いところから誠実に誼を結んでくれた。わたしがここにやってきたからには、おまえは一杯の食事を取るといいだろう」と叔千にいった。叔千は拝謝して退出した。まもなく華州節度使に任じられた[2][7]

後漢の天福12年(947年)、叔千は開封府に帰ったが、かつて遼(契丹)についたことを、恥じ入り恐れながら暮らした[2][7]乾祐元年(948年)、太子太師として致仕した[8]郭威が開封府に入ると、軍士が叔千の邸を略奪したが、叔千の財産は尽きていたため、軍士は叔千が財産を隠しているものと疑って鞭打った。傷が重く、ほどなく叔千は洛陽に帰った[7]後周広順2年(952年)冬、死去した。享年は72。侍中の位を追贈された[2][7]

家族

脚注

伝記資料

参考文献

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