安室勝五郞
From Wikipedia, the free encyclopedia
安室 勝五郞(あむろ かつごろう、1855年 - 没年不詳)は神奈川県出身。横浜港を拠点に人夫請負業を営み、砂利勝組と称した。
佐藤八蔵の二男として1855年(安政2年4月2日)[1]後の横浜市に生まれる。安室家に養子入りし7歳の頃より養父・半蔵の魚商を手伝った。22歳の時に沖仲仕となり、20年働いて頭角を現すと1896年(明治29年)に独立。人夫請負事業を始めた[2]。当時横浜に来ていた外国船は輸入目的が殆どであり、輸出は生糸や茶などが極僅かだけであった。そのため帰路は空に近く、バラストとして砂利を船底に積み込んだ。勝五郎たちは船内の限られた空間にこれらを効率的にバランスよく配置する積付が上手く、その仕事ぶりが評判を呼んで砂利勝組の呼称が定着したとされる[3]。
1900年(明治33年)安室家の家督を相続[2]。時代と共に徐々に砂利の需要が減ると、船内荷役の請負に主軸を移し一層栄えた[1]。
東京の港へ初めて汽船を乗り入れる話[注釈 1]が持ち上がった1917年(大正6年)には、荒川敬の要請を受けて中村義恵[5]ら25人程を芝浦へ派遣。これが後に東京の人夫請負の大手となる中村組設立の発端となる。勝五郎は横浜共運株式会社の取締役[6]や横浜肥料株式会社の監査役なども務め、県の多額納税者となった[7]。
砂利勝組は東京港でも人夫請負を行った[8]が、第二次大戦中に国策として一港一社体制となった為に船内荷役業を廃業[3]。横浜市磯子区にある八幡橋八幡神社の石水盤には砂利勝の文字が残る。勝五郎は同じ磯子区にある曹洞宗龍珠院に眠っている。
家族・親族
脚注
注釈
出典
- 1 2 3 『神奈川県紳士録』 附・事業発達史、横浜市誌編纂所、1930年、1140頁。NDLJP:1120851/583。
- 1 2 3 『日本人事名鑑』 昭和9年版 下卷、聯合通信社、1933年、ヤ27頁。NDLJP:1688665/1022。
- 1 2 3 『宇徳運輸百年史』宇徳運輸、1991年12月、54頁。NDLJP:13098563/41。
- ↑ 『東京港パイロット史』東京水先区水先人会、1990年10月、37頁。NDLJP:13152836/21。
- ↑ 『日本放送大観』日本放送大観発行所、1931年、641頁。NDLJP:1213346/1053。
- ↑ 『帝国銀行会社要録』 附・職員録 (大正14年版)、帝国興信所、1925年、神奈川県 よ25頁。NDLJP:974402/499。
- ↑ 『日本紳士録』(32版)交詢社、1928年、付録 全国多額納税者12頁。NDLJP:2127115/986。
- ↑ 東京市社会局庶務課 編『東京港を中心とする海上生活者調査』東京市、1936年、12-13頁。NDLJP:1441501/16。
- ↑ 『人事興信録』(第11版 下)人事興信所、1937年、ヤ57-58頁。NDLJP:13046235/1061。