荒川敬
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旧水戸藩士・荒川信敬の長男。水戸市下市仲之町[3]にて1881年(明治14年)7月29日に生まれる[4]。地元の小学校を卒業後に数え年17歳で志を持って上京。同郷の西野元のもとに身を寄せ英数漢の学科を勉強した。1904年(明治37年)勃発した日露戦争では徴兵を受け近衛歩兵第1連隊所属の軍曹[5]として満州へ渡り、その働きをもって金鵄勲章を授与される[3][注釈 1]。復員翌年の1906年(明治39年)商船会社に入り海運業に携わった。1909年(明治42年)八幡屋回漕店に入社。1014年(大正3年)に独立した。
1917年(大正6年)春。艀賃の高騰を受けた苦肉の策として、当時まだ開発が進んでおらず芝浦泊地や芝浦錨地と呼ばれていた東京港芝浦に直接大きな船を乗り入れることを計画[注釈 2]。得意先であった田中長兵衛に直談判して許可を得る。同年10月6日、底触事故の危険を覚悟しつつ釜石製鉄所からの鋼材を積んだ第三長久丸が芝浦の日の出町岩壁(後の日の出埠頭となる場所)通称・亀腹に直接接岸[注釈 3][9]。その後さらに勢徳丸と真隆丸も成功し、これが東京港に入港した最初の西洋型汽船とされる[7]。
大正末には自身で設立した荒川回漕店のみならず主家に当たる八幡屋回漕店の社長も兼ねる[3]。その他、東京給水の代表取締役、東京回漕業組合長、東京海運業副組合長なども務めた[5]。
1928年(昭和3年)3月末、水上協会理事会で不就学児が多かった水上生活者のための学校設立が可決され、敬は水上小学校建設委員長に就任[7]。各方面と折衝を行い寄付金を集め、1930年(昭和5年)9月、京橋区が月島第二小学校のバラック建て旧校舎を無償貸与する形で東京水上尋常小学校は開校した[注釈 4]。
また住宅の給湯設備用に地下式湯沸し装置を考案し特許を取得。エーテー人造温泉と称し荒川商会で販売した[11][12][注釈 5]。敬は独立当時から縁のある三陸汽船で常務取締役も務めている[14][15]。
1954(昭和29)年10月、社団法人東京ポートサービス協会(後の東京港埠頭株式会社)が設立。初代理事長に就任する[2]。1959年(昭和34年)に藍綬褒章を受章[16]し、1964年(昭和39年)2月24日逝去[2]。死没日付をもって正六位に叙され、勲五等瑞宝章を追贈された[17]。
家族・親族
- きくよ(妻)- 1890年1月生まれで及川与治兵衛の六女。宮城県石巻市出身。三輪田高等女学校を卒業し敬と結婚、三男三女を産んだ。
- 英幸(長男)- 1909年生まれ。東京大学経済科卒。十五銀行を経て三井銀行に入り、銀座支店長を務めた[18]。
- 満壽子(長女)- 1911年1月生まれ、三輪田高等女学校卒業。後に日本IBM会長となる鈴木信治に嫁いだ[19]。
- 喜代子(二女)- 1915年5月生まれ。三輪田高等女学校卒業。
- 幸雄(三男)- 1920年6月生まれ。早稲田大学法学部卒、野村殖産メダン支店勤務[20]。
- 絢子(三女)- 1923年2月生まれ、日本女子大学卒業。鐘淵化学工業で常務取締役を務めた西田徳治に嫁ぐ[21]。
脚注
注釈
- ↑ この従軍時の上官に斎藤瀏少尉がおり、二・二六事件後に反乱軍を援助したとして斎藤が投獄された際は、刑務所へ面会に行っている[6]。
- ↑ 当時の東京港は水深や補給などあらゆる面で中大型船の受け入れ態勢が不十分。そのため船舶はすべて横浜港に停泊し、艀で東京に回漕していた。ところがこの艀の運賃が暴騰したため直の東京入港を計画。多くの船主は「ゴトリ1万円」と言われた底触による多額の修繕費を恐れたが、田中は挑戦を許可した[7]。
- ↑ 入港第一号の船名を真盛丸とする書籍もあるが、その名は田中長兵衛の持船に無い。荒川敬本人の寄稿文には第三長久丸の名が確認できる[8]。
- ↑ 船は一ヶ所に留まらないことも常であり、以前は水上生活者の子が登校後に父母の船がやむを得ず移動。帰る船が無い子は付近で野宿し、翌朝空腹のまま登校する事態も少なからずあったとされる。そのため寮を準備し、生徒は全員ここで生活出来るようにした。その後徐々に水上生活者が減ったこともあり、40年間で累計760名を卒業させ、1970年に閉校した[10]。
- ↑ 回漕部と人造温泉部の事務所は共に日本橋区小網町で隣接。その他、回漕部出張所が芝区日ノ出町にあった。従業員は併せて70名程[13]。
出典
- ↑ 『茨城人名録』いはらき新聞、1939年、654頁。NDLJP:1028502/331。
- 1 2 3 『東京港史』 第3巻 (回顧)、東京都港湾局、1994年3月、494頁。NDLJP:13161526/258。
- 1 2 3 茨城県史研究会 編『茨城県史』茨城県史刊行会、1930年、126頁。NDLJP:1187025/213。
- ↑ 『大衆人事録』(第12版 東京篇)帝国秘密探偵社、1938年、東京31頁。NDLJP:1207513/52。
- 1 2 高島末吉 編『麹町之状勢』麹町之状勢刊行所、1926年、389頁。NDLJP:1020296/218。
- ↑ 斎藤瀏『獄中の記』東京堂、1941年9月、147頁。NDLJP:1906737/86。
- 1 2 3 『東京港パイロット史』東京水先区水先人会、1990年10月、35-37頁。NDLJP:13152836/20。
- ↑ 『東京港』5 (4) (47)、東京港振興会、1941年4月、12-14頁。NDLJP:1548798/8。
- ↑ 『東京港史』 各論、東京都港湾局、1994年3月、394-395頁。NDLJP:13329677/198。
- ↑ 『社団法人東京港運協会三十年史』東京港運協会、1982年6月、42-46頁。NDLJP:11916935/68。
- ↑ 『建築ト設備仕様輯録』建築設備研究会出版部、1937年。NDLJP:1245321/104。
- ↑ 『皇国日本史』万朝報社調査部皇国日本史編纂局、1936年、152頁。NDLJP:1685126/342。
- ↑ 『茨城県紳士録』(昭和10年)有備会出版部、1935年、38頁。NDLJP:1232429/53。
- ↑ 藤井麟太郎『日本紳士録』 第52版、交詢社、1960年、あ69頁。NDLJP:1086109/93。
- ↑ 『日本全國銀行會社録』 第50回 上卷、商業興信所、1942年、556頁。NDLJP:1082937/328。
- ↑ 『東邦経済』29 (12)、東邦経済社、1959年12月、113頁。NDLJP:2240811/61。
- ↑ 昭和39年 1964年3月2日付 官報 本紙 第11162号 22頁
- ↑ 『日本女性録』(第2版)中央探偵社、1958年9月、32頁。NDLJP:13244558/42。
- ↑ 『人事興信録』(第23版 上)人事興信所、1966年、す83頁。NDLJP:3044977/1144。
- ↑ 『人事興信録』(第14版 上)人事興信所、1943年、ア124頁。NDLJP:12987060/118。
- ↑ 『人事興信録』(第25版 下)人事興信所、1969年、に53頁。NDLJP:3044854/527。