安崇阮
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安文祐の子として生まれた。若くして才気が高く優秀で、弁舌にすぐれ、騎射を得意とした。中和3年(883年)、安文祐が孟方立に敗れて陣没した。昭宗のとき、崇阮は宰相の崔胤の推薦を受けて、諸衛将軍を歴任した[1]。
後梁が建てられると、崇阮は呉越への使節をつとめ、宝物を得て帰国した。それらをすべて献上すると、朱全忠を喜ばせた。毎年、小さな馬車に乗って、呉越とのあいだを往来し、帰国すると貢献した。後梁の末帝が即位すると、客省使に任じられ、知斉州軍州事をつとめた。ときに梁軍が晋王李存勗と黄河で対陣し、冀王朱友謙が河中府で叛くと、末帝は段凝に命じて軍を率いて河中府と晋州を経略させた。崇阮はその監軍となり、さらに知華州軍州事をつとめた。翌年、青州兵馬留後に任じられ、入朝して諸衛上将軍となった[1]。
後唐の同光元年(923年)、崇阮は検校司空・左監門衛上将軍となった[2]。同光4年(926年)、左龍虎軍統軍となった[3]。天成元年(同年)、晋州節度留後となった[4]。のちに晋州節度使に進んだ。天成3年(928年)、左驍衛上将軍となった[5]。天成4年(929年)1月、黔州節度使に任じられた[6]。5月、寧江軍節度使に転じた[7]。長興2年(931年)、孟知祥が剣南西川で反乱を起こし、夔州に迫ると、崇阮は夔州城を棄てて洛陽に帰った[8]。長興3年(932年)、右驍衛上将軍となった[9]。長興4年(933年)、左神武軍統軍となった[10]。
後晋の天福2年(937年)、崇阮は勅命を受けて後梁の末帝を葬り、後梁の旧臣として、葬儀を主催した。天福5年(940年)、老病のため引退を願い出て、右衛上将軍として致仕した。開運元年(944年)9月、洛陽で死去した。太傅の位を追贈された[1]。