安彦威

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安 彦威(あん げんい、生年不詳 - 946年)は、五代十国時代軍人官僚は国俊。本貫代州崞県[1][2]

若くして李嗣源の麾下に従軍し、弓射を得意とし、兵法に詳しかった。李嗣源が節度使を歴任すると、彦威はその牙将をつとめて、慎み深く温厚なことで信頼された。天成元年(926年)、明宗(李嗣源)が即位し、皇子李従栄興唐尹となると、彦威は護聖軍指揮使となった。天成2年(927年)、李従栄が判六軍諸衛事となると、彦威は禁衛に入り、寧国軍節度使を遥領した[1][2]応順元年(934年)、河中節度使となり[3]、西面行営兵馬都監をつとめた[4]。3月、霊宝県で潞王李従珂に降った[5]

後晋天福元年(936年)、高祖石敬瑭が即位すると、彦威は徐州節度使となった。天福2年(937年)、太原尹・北都留守・河東節度使に任じられた[6]。天福5年(940年)、帰徳軍節度使に転じた[7]。天福7年(942年[8][9]滑州黄河が決壊すると、彦威は勅命を受けてこれを塞ぎ、私銭を拠出して民を徴募して堤防を整備した。西都留守に転じた。飢饉が発生すると、彦威は飢えた民を援助した。法を犯した民がいても、みな寛大に赦した。まもなく母が死去すると、彦威は辞職して喪に服し、哀毀すること礼の規定を超えていた。開運3年(946年)、少帝契丹と対立すると、彦威は北面行営副都統に任じられ、家財を傾けて軍を助けた[1][2]。7月、開封府で病没した。太師の位を追贈された[10]

脚注

伝記資料

参考文献

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