安藤早太郎
From Wikipedia, the free encyclopedia
三河国挙母藩(現在の愛知県豊田市)出身。嘉永4年(1851年)に脱藩し[1]、知恩院一心寺に入寺する。その後、文久3年(1863年)5月までに壬生浪士組に入隊していることが明らかになっており(5月25日に江戸幕府に提出された上書に連名している)、6月の新選組結成時には副長助勤に就任している。
池田屋事件では近藤勇隊に所属し、奥沢栄助や新田革左衛門と共に池田屋裏庭の防御に当たったが、逃亡を図る尊皇攘夷志士の猛攻を喰らい、深手を負う。その負傷がもとで、同年7月22日に逝去。墓は壬生寺と聞名寺にある。後に会津藩から別段金20両を賜った。
子母澤寛が旧幕臣らに取材した著書『新選組遺聞』に登場する安藤早太郎が25~26歳に描かれていることから、元挙母藩士と新選組隊士の安藤早太郎は同名別人説もあった。豊田市郷土史資料館は、会津藩がまとめた記録『維新階梯雑誌』(宮内庁宮内公文書館所蔵)の新選組隊士名簿に、安藤早太郎が「三州(三河国)」「四十才」と記されており、同一人物であるとの見解を2018年に発表している[1][2]。