安藤正次の子として誕生。
父が元和元年(1615年)の大坂夏の陣で深傷を負い自刃し、家督を継ぐ。同年、領地の阿久和に観音寺を創建した。小姓組[1]より徒頭[2]を務め、槍奉行[3]および諸国巡視役となる。寛永10年(1633年)に宇治採茶使を神尾守勝、近藤用行、朽木友綱と務める[4]。甲斐国八代郡内より500石の加恩を受け、私墾田を合わせて寛永10年末の知行は2540石となった。鍵屋の辻の決闘で荒木又右衛門に殺害された河合又五郎を江戸屋敷で匿ったとされている[6]。幕府の裁定は喧嘩両成敗となり、久世広当、阿倍正之と共に寛永寺へ百日間の寺入りを命ぜられた。
墓所は横浜市瀬谷区阿久和にある通称・お墓山[7]。