宋彦筠
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はじめ滑州の軍に属した。後梁の貞明5年(919年)、梁軍が晋王李存勗と黄河をはさんで戦うと、彦筠は戦棹都指揮使となり、功労により開封府牙校に転じた[1]。
同光元年(923年)、後唐の荘宗(李存勗)が華北を平定すると、彦筠は抜擢されて禁軍を領知した。同光3年(925年)、前蜀に対する征戦が起こされると、彦筠は部下を率いて康延孝に従って先鋒をつとめた。前蜀が滅亡すると、彦筠は維州刺史・渝州刺史を歴任した。明宗のとき、また数州の長官を歴任した[1]。
後晋の天福4年(939年)、彦筠は汝州防禦使から匡国軍節度使となった[2]。天福6年(941年)、襄州の安従進が反乱を起こすと、彦筠は高行周の副将として安従進を討った[3]。天福7年(942年)、少帝石重貴が即位すると、彦筠は威勝軍節度使に任じられた[4]。検校太尉に累進した。天福8年(943年)、建雄軍節度使に転じた[5]。開運元年(944年)、保義軍節度使となった[6]。開運2年(945年)、再び威勝軍節度使となった[7]。開運3年(946年)、滹沱河を渡って契丹と戦い、敗れた[8]。
後漢の乾祐3年(950年)、太子太師として致仕した[9]。後周の広順元年(951年)、左衛上将軍に任じられた[10]。広順3年(953年)、太子少師となった[11]。顕徳元年(954年)、世宗柴栄が即位すると、彦筠は再び太子太師として致仕した。顕徳4年(957年)冬、洛陽の私邸で死去した。侍中の位を追贈された[1]。